常識を覆した起業家、
サー・トーマス・リプトンとは?
5つのイノベーションを起こせた理由
ビジネスにおける"あの常識"も
実は彼がパイオニアだった!
1850年、スコットランドの中心都市グラスゴーに生まれたトーマス・リプトン。生家は小さな食料品店だった。1871年、ちょうど21歳の誕生日に彼は自分の店を開く。取り扱うものは父の店と同じ、チーズやハム、卵などの食料品。リプトンが紅茶事業へと参入したのは1889年、39歳の時だった。相場の半額程度で上質な紅茶を提供し、事業は大成功を収めた。
彼が「常に安定したハイクオリティな紅茶をリーズナブルに提供したい」という夢を実現できたのは、商品の販売や生産、経営体制などにおいて、当時の業界では初めての、様々な画期的な手法を編み出したからだった。以下、5つのポイントで見て行こう。
・1「奇抜な宣伝」
例えば店頭に掲げた、ペンキで描いた大きなハムの看板。暑い日にペンキがにじんで軟らかくなり、脂が乗った本物のハムのように見えるようにし、話題を呼んだ。
ほかにも、800頭から搾った6日分の牛乳で巨大なチーズを作り、クリスマスの目玉商品として販売。中に金貨をたくさん入れ、小さくカットして店頭で売ったところ、2時間と経たずに完売した。警察から金貨を飲み込む恐れを指摘されると、それを逆手に取り、すぐに新聞にチーズの中の金貨に注意するよう広告を掲載し、さらに人気に火がついた。大胆でユーモアあふれるアイデアが多くの人の心をつかんだのである。
・2「ティーバッグの普及」
リプトンは安くておいしい紅茶を販売するため、オリジナルブレンドの紅茶を作り上げることに行き着いた。そのブレンドのため、ロンドンの茶葉界でもトップクラスのブレンダーをヘッドハンティングした。
最も画期的だったのが、茶葉を事前に計量し、包装しておくこと。それまでは注文に応じ、大きな箱から茶葉を取り出して量り売りしていたが、1ポンドや4分の1ポンドなどの量で前もって包み、パッケージ化。茶葉の品質やブレンド名も包装に印刷でき、鮮度も維持できたため、大ヒットにつながった。
さらに、水の質により風味が異なることから、地域ごとの水質に応じてブレンドの配合も変えるオリジナルティーの開発に着手。各地で愛される味を生み出した。
・3「生産革命」
1890年、トーマス・リプトンはセイロン島を訪れた。紅茶の生産地としてのポテンシャルにいち早く目をつけた彼は、数多くの茶園を買収。首都コロンボには、ブレンドとパッキングの工場を設け、製茶の様々な工程に最新の設備を導入し、大量生産と品質の両立のために効率化を進めた。
また、茶摘みをする人の負担を減らすため、山の上から工場までロープウェイを設置した。急な斜面や足場の悪い場所で摘み取った茶葉を安全に速く、大量に運搬することができる斬新な方法だった。
・4「慈善活動」
トーマス・リプトンは慈善事業にも熱心だった。1897年、ヴィクトリア女王の即位60年を祝う記念式典の際、皇太子妃の名で式典当日に貧しい人々に給食を出すロイヤルディナーが企画されたが、その基金に必要な3万ポンドのうち、2万5000ポンドが不足。これを知った彼は、即座に不足分を寄付。新聞を通じてセンセーションが巻き起こった。
・5「販売の工夫」
リプトンに多大な利益をもたらした仕掛けのひとつに、迅速な多店舗展開が挙げられる。1号店の開店からわずか10年間で店の数は20軒以上。「店の数が増えるだけ利益は増大する」という彼の考えによるものである。店舗や工場以外にも、自社に印刷所を作り、20カ国語の広告文とポスターを印刷し、世界に向けてリプトン紅茶を発信した。
小売店による展開だけでなく、アメリカでは卸売の代理店を持ち、ホテルやレストラン、個人商店へと販路を広げる方法を採用。結果、全米から注文が舞い込む。国や地域で柔軟に販売の仕方を変えるリプトンの手腕は、グローバルかつローカルな視点に敏感だった証拠と言えるだろう。
彼のアイデアは常識を打ち破る。その代表例のひとつが、世界初のクーポンを発行したこと。当時の1ポンド紙幣とほとんど同じデザインのチケットを作り、店舗に持参すればハムとバター、卵を格安で提供すると約束した。
彼が商品開発、生産、販売などビジネスの様々な局面で、数々の革命を起こすことができたのはなぜか? それは次の言葉が示している。