内陸県に海を思わせる「八潮市」地名のナゾを追う 住民が守った日本唯一の地名"垳"は何と読む?

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また、市南部は東京都足立区や東京都葛飾区と隣接し、常磐線の綾瀬駅、亀有駅、金町駅へ向かうバス系統が複数通っている。このように周辺の鉄道駅から広がってきた住宅地化により、人口を伸ばしてきた。また市北部には1971年に八潮団地が建設されており、こちらも人口増加に貢献している。

そして、昭和の大合併前には「八幡村」と呼ばれていた市西部のエリアには、高度経済成長期から発展した一軒家を主体とした郊外らしい住宅地の風景を見ることができる。

市西部の八幡地区
市西部の八幡地区は一軒家主体の住宅地がメインだ(写真:筆者撮影)

また、八潮駅周辺や市の西部といった住宅地の広がるエリアと趣が異なるのが、市の北部だ。昭和の大合併まで「八條村」と呼ばれたエリアで、地名は8世紀に定められた土地区画制度「条里制」からきているとされる。そのためか、市の東を流れる中川に近いエリアには農村地帯の面影が残っている。

市北部の八條地区
市北部の八條地区には農村景観も残る(写真:筆者撮影)

市の北西部には工場や倉庫が多い。八潮市内で工業化は大正時代に萌芽が見られたが、本格化したのは第二次世界大戦後のことだ。1959年に八潮村(当時)が工場誘致条例を制定し、市の北西部や市の西部に工場が立地した。その結果、工場労働者も多く移り住んだ。

八條地区の工業団地
市北部の八條地区にある工業団地の様子(写真:筆者撮影)

つまり、東京の住宅地の広がりと工場の立地の両輪で八潮市は大きく人口を伸ばしてきたのである。

人口を伸ばした後も、1985年に首都高速6号三郷線と国道298号が、1992年には東京外環自動車道が市内を通るようになり、自動車交通網が強化されたことで八潮の工業化はさらに発展し、首都高速道路の周辺には小さな工場や倉庫が多く立地する、現在の風景が形作られていった。

八潮の地名と工業化を生み出した「川」

八潮で工業化が進展した要因としては、東京都心から比較的近距離にもかかわらず、地価が安かったことが挙げられる。そして、地価が安かったのは、開発が周辺地域に比べてあまり進展していなかったためだ。

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