水戸線の「小駅」関東大震災後の知られざる大貢献 上野駅再建にも使われた石材の産地、稲田駅

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そして稲田石は戦災復興でも大活躍する。1951年には進駐軍から払い下げられたガングソーが採石場に導入された。ガングソーとは、鉄砂などを流しながらピストン運動で摺り落とし、原石を所定の厚さの挽き板に裁断する大鋸裁断機のことで、導入によって生産性が向上。これが稲田の活性化にも寄与する。その後も、フォークリフトやトラクターシャベルなどが導入されるなど、機械化が進められていく。

こうした機械化による生産性向上にも助けられ、戦災復興が落ち着く頃合いになっても稲田石の需要は堅調を保った。鉄道関連では、1952年には高円寺駅、1955年には御徒町駅の駅舎再建で稲田石が使用されている。

こうした駅舎建築のほかにも、戦後は百貨店や大企業の社屋・営業所などで多用されるようになる。稲田石を用いた著名な建築物は全国に分布しているが、注目すべきは戦災で焼失した宇都宮市庁舎が1952年に再建する際に稲田石が使われていることだ。

なぜ宇都宮市庁舎に稲田石が使われたことが注目すべきことなのか? それは、宇都宮は知る人ぞ知る石の町で、市内の大谷地区で産出する大谷石は軽くて加工しやすく、耐火性にも優れていることから戦前から建材として重宝されていたためだ。大谷石の本場でもある宇都宮市庁舎を再建するにあたり、大量の稲田石が使用されたことはそれほど優れた建材であることを証明したことになる。ちなみに、1959年にオープンした東武百貨店宇都宮本店でも稲田石が使用されている。

鉄道での出荷はなくなったが…

稲田石の需要は高度経済成長期も堅調に推移したが、他方で共存共栄の関係にあった稲田駅周辺のトロッコ線群は戦災復興が落ち着いた頃からトラック輸送へと切り替えられていった。1952年から長山線が撤去され、茨城軌道も翌1953年に廃止が決定。丁場から集積場までの区間は一時的に残されたものの、1958年には全線が撤去された。最後まで残ったのは中野線だったが、それも1965年に廃止されている。

こうして稲田石の産出に大きな役割を担ったトロッコ線群は、トラック輸送に役割を奪われて全線が姿を消す。トロッコ線全廃後も稲田駅の貨物取り扱いは残っていたが、それも1984年に終了した。

稲田駅遠景
稲田駅の遠景。鉄道による出荷はなくなったが稲田は今も石の街だ(筆者撮影)

トロッコ線が廃止され、水戸線の貨物取り扱いも幕を下ろしたが、稲田では現在も多くの採石業者や石材業者が操業している。稲田石が、今も同地を支える地場産業であることは変わっていない。

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小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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