今や引く手あまた「あのちゃん」の知られざる一面 テレビやバラエティで活躍、「今年の顔」的存在に

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“正体不明”という印象は、自身も認めるこの多様性という部分から来るものだろう。他人が定めたひとつのカテゴリーや場所に縛り付けられたくないという強い思い。それがあのという人間を突き動かしているように思える。

最初にふれた、「あのちゃん」ではなく「あの」だという点もそうだ。「あのちゃん」は周囲からの呼び名で、自分から名乗ったものではない。「あのちゃん」と呼ばれること自体が嫌なわけではなく、そこはきちんと区別してほしいということだろう。

二者択一ではなく、ただ一個の多様な存在として生きる

あのが使う「ぼく」という一人称も同様だ。女の子だから「わたし」を使うべきというのは、周囲が決めたこと。自分が一番しっくりくるのが「ぼく」であれば、それでよいということに違いない。それは、二者択一の一方を否定するということとは違う。どちらを選んでもよいということだ。

こうした二者択一の拒絶、選択の自由の主張は、仕事の面でも一貫している。

例えば、アーティストとアイドル。これもどちらかを選ばなければならないわけではない。バラエティ番組ではアイドル的存在でありつつ、音楽では自分で曲もつくるアーティストというように、むしろ両方の面があっていい。

そしてアーティストとしても、ポップさと過激さの両面があって構わない。「ちゅ、多様性。」のようなポップなアニソンとして表現されるものでもよいし、あのがソロ活動と並行して活動しているバンド、I’sのようなパンクロックとして表現されてもよい。

またテレビでのバラエティ出演でも、キャラか素かということはどちらでもよい。「それキャラでやってるんでしょ?」というのはバラエティの定番のいじりではあるが、根本的にはキャラか素かではなく、たとえ時々矛盾する部分があったとしても、すべての言動や振る舞いが「あの」という一個の存在の欠かせない一部なのだ。

「かわいい」と「かっこいい」の二者択一をただ単に拒絶するのではなく、両方を軽やかに行ったり来たりしながら、主張するところはしっかり主張して新しい世界を目指す存在。それが、あのということではないだろうか。

あの自身が経験してきたように、そうすることは生きづらさにもつながりかねない。だがそれでもあののように生きたいと願うひとも少なくないだろう。そこには、まさに「いま」という時代が見える。

太田 省一 社会学者、文筆家

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おおた しょういち / Shoichi Ota

東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。それを踏まえ、現在はテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、歌番組、ドラマなどについて執筆活動を続けている。著書として『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『平成テレビジョン・スタディーズ』(青土社)、『テレビ社会ニッポン』(せりか書房)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『中居正広という生き方』『木村拓哉という生き方』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)などがある。

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