LRTで注目、宇都宮が「北関東の大都市」になるまで 明治初期は不遇、鉄道の開業が飛躍の原動力に

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先述の乗合馬車は鉄道開業によって旅客営業を廃止。郵便物の運送は1887年まで続けられたが、それも日本鉄道に役目を譲る。乗合馬車に協力した手塚は、その後に運送店を開業。引き続き、日本鉄道から送られてくる荷物を取り扱っている。

駅が開業したことで宇都宮は北関東の商業都市として存在感を強くしたが、それ以上に日光が注目されるようになった。それまで東京―日光間は宇都宮での安息日も含めて4日以上を必要とした。これが鉄道開業により東京―宇都宮間は半日、安息日は不要になり日光までの移動は2日に短縮された。日光参詣者は小休止するために宇都宮に寄ることはあったが、宿泊需要は激減した。

その後、1890年に宇都宮駅―日光駅間が開業すると、日光参詣者の滞在需要はさらに減少。反対派が不安視していた宇都宮の衰退は、観光という面で顕著に現れた。

政府が計画した「宇都宮飛ばし」

東京から見れば、宇都宮はあくまでも途中で立ち寄るための都市でしかない。宇都宮をショートカットできれば、東京―日光間の所要時間は短縮できる。そう考えた政府は、1930年頃から宇都宮駅―日光駅間の日光線のルート変更を検討している。

東京から日光へと向かうルートは東北本線で宇都宮駅を経由することになるが、宇都宮駅から日光へと向かうルートはいったん南へとバックするような線形になっている。これは現在も変わっていない。このいったん南へと移動するルートが無駄だとして、政府は東北本線の雀宮駅から日光線の鶴田駅を直接つなげる路線の計画を立てた。

政府の“宇都宮飛ばし”とも言える計画は、1940年に東京五輪と東京万博が同時開催される予定になっていたことと無縁ではない。東京五輪・東京万博を開催すれば、諸外国から多く観光客が訪れる。五輪・万博の後、少しでも長く滞在してもらうために、東京近郊を観光してもらう。そうした経済的な算段が政府にはあり、日光への所要時間を短縮するためには宇都宮駅を経由しないルートが望ましかった。

日光線 E131
宇都宮―日光間を結ぶJR日光線の電車(写真:Jun Kaida/PIXTA)

宇都宮政財界は宇都宮駅をショートカットする路線変更を断固として認めず、鉄道大臣に反対の陳情書を提出。日中戦争が激化したことで五輪と万博は中止となり、同計画は立ち消えた。

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