北海道、リゾート化と縁遠い「旧胆振線」の疎外感 新幹線開業後は函館本線も代替バスの倶知安側

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喜茂別では、生き残った胆振線代替バスの倶知安喜茂別線へ乗り継げるが、やはり駅があった御園が気になる。古い時刻表を見ると、1980年10月1日のダイヤ改正で廃止された時点で、急行「いぶり」は御園に停車していたのだ。

「いぶり」は札幌発札幌行きという「循環急行」だった。1962年に臨時列車として札幌―倶知安―伊達紋別―札幌のルートで運転を開始し、翌年に定期列車となると同時に、逆ルートの列車も設定された。当時はまだ胆振線沿線でも鉱業が盛んだったためビジネス客と、観光客を見込んでの運転だったと思われる。ただ、札幌へは距離が短い倶知安経由でも、喜茂別からだと廃止時で2時間45分かかった。最短ルートを通る中山峠・定山渓経由の長距離バスとは、所要時間でも運賃・料金でも遜色があった。

「いぶり」の当初の停車駅は、壮瞥、北湯沢、新大滝、喜茂別、京極だったが、最末期には久保内、蟠渓と御園も停車駅に加わっていた。久保内と蟠渓は観光客の便を図った節があるが、御園は単に列車交換が可能な駅だったからで、他に理由はとくに見当たらない。胆振線は最後までタブレット閉塞方式であり、急行が通過しながらのタブレット交換を避けるため停車に改められたと思われる。

道南バスの喜茂別バス停11時27分発の町営バス「ウサパラ号」双葉・金山線が御園へ行くため、ワゴン車に200円支払って乗り込む。乗客は私一人。北鈴川駅があった鈴川で国道276号と分かれ、ほんの5分ほど農場の中を走ると御園に着く。ここまで来る町営バスは、1日2.5往復だ。

旧胆振線の御園駅
かつて急行停車駅であった御園駅は原野に戻りつつある(筆者撮影)

元の駅前広場がバスの転回場。そして道南バス時代に建てられた木造の待合室が、そのままポツンと建つ。駅の痕跡はホームであったらしい石組があるだけで、ほとんどが原野に帰りつつあった。そして周辺の民家もごくわずか。2020年の国勢調査によると、御園駅があった喜茂別町金山の人口は4世帯6人となっている。喜茂別町自体の人口も2000人を切ってしまった。「ウサパラ号」も御園から少し先の住民がいる区間へは、予約があれば運行するとなっているが、いかほどの利用があるのか。

リゾート地に囲まれた旧胆振線沿線

公園と住宅地になっている旧喜茂別駅跡を眺め、喜茂別14時発の倶知安行きで、隣り町の京極へ向かう。地域の象徴である羊蹄山を左手に眺めながら、国道276号を淡々と走る。倶知安喜茂別線は1日8.5往復の設定。京極バスターミナルまでは17分、420円。京極の市街地の中央に整備された交通拠点で、京極町商工会との合築になっている。胆振線京極駅跡とは別の場所だ。京極町の人口は2800人ほどだが、喜茂別より大きな市街地に見える。

胆振線喜茂別駅跡
胆振線の喜茂別駅跡。現在は公園と住宅地になっている(筆者撮影)
喜茂別を発車した道南バス
喜茂別を発車し倶知安駅前へ向かう道南バス(筆者撮影)

胆振線最初の開業区間は京極―倶知安間で、1919年11月15日に開通。翌年に脇方まで延伸されている。脇方にあった大規模な鉄鉱山の鉱石輸送のために建設された鉄道であった。胆振線の全通後、京極―脇方間は支線となり引き続き鉄鉱石輸送でにぎわったが、1969年の閉山により1970年に廃止された。脇方だけで人口は最盛期には4000人を数えたが、2020年の国勢調査によると現在の人口は0。脇方への公共交通機関は、当然ながら現存しない。

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