村上春樹新作「文芸のプロ」が読んだ驚く深い感想 『街とその不確かな壁』は"期待通りの傑作"か

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村上春樹的世界にあって、いつも問題になるのは、人間の無意識世界や魂の問題を、どう世俗的な言葉に翻訳し、折り合いをつけるかという課題だった。

彼は1960年代末の日本の「悪霊」たちの跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を目撃した作家として、それをいかに世俗的、非宗教的に、語り直すかという課題を引き受けたのだ。

旧作「街と、その不確かな壁」で直接的に告知された「言葉」への不信を、別の方法で語り直し、言葉への信頼を回復すること。そこで彼は、小説的な主題を、直接ではなく、黙示的に示すという方法に行き着いたのである。

救い主の来ない「世界の終り」を、「街」というディストピア(反理想郷)として描くこと。そこで彼は、「無意識の世界」で起こっている出来事(夢はその具体的な表象だ)を、「本当の現実」に食い込ませるような描き方を、小説の方法として選んだ。

「無意識の世界」を「本当の現実」に食い込ませる描き方

近作を例にとると、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)はその典型だろう。

高校時代からの4人の男女の親友から、ある日突然はじき出された主人公は、その理由も告げられず、傷心の果てに「死の欲動」(フロイト)に支配されるが、強烈な印象を残す夢の中でのひとりの女性をめぐる激しい嫉妬の念から、「生の感情」を呼び覚まされる。

「たぶんそのとき、夢というかたちをとって彼の内部を通過していった、あの焼けつくような生の感情が、それまで彼を執拗に支配していた死への憧憬を相殺し、打ち消してしまったのだろう。強い西風が厚い雲を空から吹き払うみたいに。それがつくるの推測だ」
(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文春文庫、55ページ)


 問題は、ただ彼が死を思いとどまった事実にあるのではなく、それほどにも強い「死への憧憬」(=欲動)のほうにあったのだ。

その後、彼は「巡礼」のような、かつての友人たちへの出会い直しの旅を通じて、後に自殺した女友達が、つくるにレイプされたことを他の3人に告げていた事実を初めて知らされる。

3人はそれが、精神失調による彼女の妄想であることを知っていたが、真に受けたそぶりを示すしかなかった。

だが、もちろん、それはただの「妄想」などではない。筆者の解釈を交えて言うと、この一件は、つくるの「無意識」世界での抑圧された願望が、この親しい女友達に「転写」された結果、引き起こされたと解釈できるのだ。

そこには、「死の欲動」(本能よりも根深く無意識世界に根を張る)がかかわっている。フロイトの心理学は初期において、「快感原則」「現実原則」の二元論で成り立っていた。欲望それに対するブレーキの役割である。

ところが、第一次大戦からの帰還兵に見られる悪夢の反復強迫に接したフロイトは、後期の『快感原則の彼岸』で、先の二元論を手放さざるを得なくなる。

生命の危機に接した後に現れる「戦争神経症」の反復強迫は、「夢は欲望の充足である」というテーゼを覆すものだった。

ここで彼は、「生の欲動」(エロス)にも勝る、「死の欲動」(タナトス)に注目する必要を痛感する。前者は「生の統一性」を維持しようとし、後者はその統一を破壊し「死」という無機状態への回帰を促すエネルギーだ。

「快感原則」と「現実原則」の二元論を放棄したフロイトは、「死の欲動」が外部に向けられたとき、それが「攻撃欲動」(戦争はその極限形態)​となり、内部に向けられたとき「超自我」という心のブレーキを作ることになると考え直したのだ。

村上春樹の作品では、この「死への欲動」(憧憬)が、「性」と「暴力」の並外れた強度を担保しているのだが、それはこの作家が、表層的な「本当の現実」ではない、「もう一つの世界」の重力に、のっぴきならず引き寄せられていることの現れでもあろう。

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