ロシアとウクライナ「民族の起源」巡る主張の対立 ウクライナと呼ぶようになったのはなぜなのか

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キエフ大公位はオレーグの死後、リューリクの息子に引き継がれ、以後、歴代、リューリクの血筋の者が引き継ぎます(リューリク朝)。15世紀、ロシア中部のモスクワ公国が強大化します。

モスクワ公もまた、「ヴェリーキー・クニャージ」を名乗っていたため、モスクワ公国は一般的に「モスクワ大公国」と呼ばれます。モスクワ大公イヴァン3世がロシア人勢力を統一し、この中にウクライナ人も取り込まれていきます。

そのため、ウクライナ人から見れば、キエフ公国の本流に対し、地方勢力に過ぎなかったモスクワ大公国には、正統性がないということになります。傍系が力と暴力によって、自分たちを強制的に従わせたと捉えているのです。

ウクライナ側、ロシア側の言い分

キエフ公国は正式には「キエフルーシ」と呼ばれており、「ルーシ」の名を引き継ぐルーシ族の正統という意味が込められています。

ウクライナ人は自分たちこそが「ルーシ(ロシア)」であり、ロシア人がそれを勝手に自称するべきではないと考えています。ウクライナ人は自分たちの歴史はロシア人によって奪われたと主張しているのです。

しかし、ロシア人にも言い分があります。ロシア人がキエフ公国を滅ぼしたのではなく、13世紀に、モンゴル人が滅ぼしました。そして、モンゴル支配から、いち早く勢力を回復したのがモスクワ大公国です。

また、モスクワ大公は傍系ではあるものの、リューリクの血統を引いているリューリク家の一族であり、「ルーシ」を継承する充分な正統性があるとされるのです。

いずれにしても、ウクライナ人とロシア人は同じ民族で、不可分一体の共通の歴史を歩んできたのであり、両者を民族的に区分することは困難です。

キエフ公国はバルト海と黒海を結ぶドニエプル川流域を支配し、交易によって栄えます。10世紀末、キエフ大公ウラディミル1世はビザンツ帝国(東ローマ帝国)と連携し、自らギリシア正教に改宗し、ビザンツ文化を受容します。この時、ギリシア正教のみならず、キリル文字をも受容し、これを基礎にロシア文字が形成されていきます。

12世紀以降、イタリアを中心とする地中海交易が活発化し、ドニエプル川流域の交易が相対的に衰退し、キエフ公国は荒廃していきます。

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