2006年がんで逝った男が遺した言葉に見えた情景 家族の懊悩と真贋と時代の空気が今にも残る

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そこで厚生労働省のサイトを探ったところ、それまで研究者や一部地域で散発的に調査されてきた告知率調査をまとめた資料が見つかった。岡山大学大学院の藤原俊義教授が「第42回がん対策推進協議会」のために2014年2月に作成したものだ。

第42回がん対策推進協議会の資料「正しい情報と個々の価値観に基づく治療法の選択について」の34ページにある「日本におけるがん患者への病名告知率の推移」

これを参考にすると、2006年頃は3人に2人程度の割合で告知されていた様子だ。告知率が伸びる途上の時期にあり、告知するほうが一般的ではあるものの、時と場合によっては病名を伏せることも2022年よりずっと普通に選ばれていたと推測できる。

1990年代に通じる空気感

実際のところ、1990年代までは死に至る病を家族にだけ伝えて、本人には最期まで知らせずにいるケースも珍しくなかった。

山本七平(1921-1991)やハナ肇(1930-1993)など、終末期まで病名を伏せられた著名人も少なくない。2021年に亡くなった橋田壽賀子も、著名人が自身の半生をつづる日本経済新聞の連載シリーズ「私の履歴書」で、肺がんにより1989年に亡くなった夫の晩年についてこう書いている。

<「左の肺に原発のがんがあって、横隔膜に転移しています。(略)余命は半年」。驚きの余り声も出なかった。
もしこのことを夫が知ったら自殺するのではないか。「夫には本当のことを言わないでください。お願いします」。懇願する私に医師は渋々、「では肋膜(ろくまく)炎ということに」と答えた。何をしても死を待つしかないのなら、夫には絶望ではなく希望の中で人生を全うしてほしい。私は夫にウソをつき通す決心をした。>
(日本経済新聞「私の履歴書」/橋田壽賀子(1)夫の死)
本連載『ネットで故人の声を聴け』が書籍化され、光文社新書より刊行されています。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

「ハリスの妻」さんもあるいは似た心境だったのかもしれない。医師から説明を受けたとき、末期の膵臓がんだとハリスさんに知らせない決意を固め、ウソをつき通す決心をもって医師に協力を求めたのではないか。そして、そのことに対する後ろめたさは、1990年代よりもいくぶんか増していたのかもしれない──。

リアルとの裏付けができない以上は推測でしかないだろう。しかし、ハリスさんのブログに残された2006年当時の死やがんに対する人々の戸惑いは、それそのものがリアルだと感じられる。故人のサイトにはそうした時代の空気が克明に残されていることがある。

※参考文献
「院内がん登録2020年全国集計」(国立がん研究センター) 
「第42回がん対策推進協議会資料」(厚生労働省) 
橋田壽賀子「私の履歴書」(日本経済新聞) 
『人間晩年図巻 1990-94年』(関川夏央著/岩波書店)
古田 雄介 フリーランスライター

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ふるた ゆうすけ / Yusuke Furuta

1977年生まれ。名古屋工業大学卒業後、建設会社と葬儀会社を経て2002年から雑誌記者に転職。2010年からデジタル遺品や故人のサイトの追跡している。著書に『第2版 デジタル遺品の探しかた・しまいかた、残しかた+隠しかた』(伊勢田篤史との共著/日本加除出版)、『ネットで故人の声を聴け』(光文社新書)、『故人サイト』(社会評論社)など。

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