侵攻で浮かびコロナで落下、マクロンの「綱渡り」 4人の戦いとなったフランス大統領選の行方

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もちろん、マクロンがこのウクライナ問題を大統領選に利用するには、それなりの深いわけがある。それはコロナ禍が始まる直前の2019年12月9日、パリのエリゼ宮にロシアのプーチン、ウクライナのゼレンスキー、ドイツのメルケルを招待して、2014年の「ミンスク合意(議定書)」以後も継続していたウクライナ東部ドンバス地域をめぐる戦争に決着をつけるための会議をマクロンが主催したからである。これを「ノルマンディ・フォルマ」(英語ではノルマンディー・モデル)という。

さて、なぜ「ノルマンディ」という言葉がついているかと言えば、それはこの会議が最初に始まったのが2014年6月6日だったからだ。1944年6月6日といえば、あの第2次世界大戦中最大の作戦と言われた「ノルマンディ上陸作戦」が開始された日である。ロシア、ドイツ、フランス、ウクライナの首脳が、フランス北西部・カーン市近くの小さな城ベヌヴィルで会合を持ったことに、この名前が由来する。結果的に、この2014年6月の会議が同年9月5日のミンスク合意へと結実したという背景がある。

「ミンスク合意」を取り持ったマクロン

ミンスク合意以後も、戦争は断続的だが終わることはなく、クリミアのロシアへの併合にドンバス地域の事実上の分離状態が続いたため、ミンスク合意は守られることはなかった。だからこそ2019年暮れ、マクロンは外交手腕を見せるべく、パリで3カ国の首脳を呼び、ノルマンディでの会議を再度行ったのだ。フランスとドイツはあくまでも媒介者の役割であり、当事者はロシアとウクライナであった。このとき、プーチンとゼレンスキーとを取り持ったのが、マクロンとメルケルだった。

だからこそ、2022年1月からウクライナとロシアの軍事衝突の危機が顕在化したとき、フランスのマクロンが前面に登場した。ドイツではすでにメルケルが政界を去り、外交にはまだ不慣れなショルツが首相になっていた。マクロンは「自分こそ調停役だ」と確信したはずである。ショルツは、戦争が始まってからイスラエルのベネット首相を調停役として使ったが、まったく功を奏しなかった。

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