7人に1人が戦死、大正生まれの男たちの慟哭 『慟哭の海峡』を読む

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(写真:ロイター/アフロ)

台湾南端の鵝鑾鼻(がらんび)岬からフィリピン領バタン(バシー)諸島との間にある海峡をバシー海峡という。黒潮が流れるこの海峡は、かつて輸送船の墓場と呼ばれていた。太平洋戦争後半には、この海峡にアメリカ軍の潜水艦が多数配備されており、南方の戦線に送られる日本軍の輸送船団に忍び寄り、その牙をむいた。この海峡で10万人以上の日本人が犠牲になったという。このことをいったいどれだけの日本人が知っているのだろうか。今もこの海峡の底には、祖国に帰る事がかなわなかった多くの日本人の無念の思いが、その御霊と共に眠っている。

本書はこのバシー海峡を彷徨いながら、九死に一生を得た元独立歩兵第十三連隊、第二大隊の通信兵、中嶋秀次と、この海峡で戦死した柳瀬千尋、そしてその兄で『アンパンマン』の作者、やなせたかしを中心に、その生と死、そして戦後を綴ったノンフィクションだ。

米軍の魚雷で撃沈し、漂流へ

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1944(昭和19)年8月19日午前4時50分。フィリピン・ルソン島のマニラを目指して、バシー海峡を航行していた「ヒ七一船団」の玉津丸は米軍の魚雷をくらう。通信員の部屋は通信業務が行いやすいように、甲板に近い場所にとられていた。このことが幸いした。暗闇に包まれ、かつ傾く船内を移動するのは至難の業だ。船倉深くの部屋をあてがわれていれば、甲板にたどりつく前に、流れ込んできた海水により溺死していたであろう。

甲板にでた途端に中嶋は大波にさらわれ、海中に引きずりこまれる。玉津丸が魚雷攻撃を受けたとき、海は時化ていたのだ。沈みゆく船が起こす流れに引き込まれ、沈んでいく中嶋は苦しみの中で死を覚悟した。しかし、盥船のようなものが偶然にも手に当たり、それを掴む。当時の艦船には船が撃沈されたときに備え、多くの浮遊物を積んでいたという。

海面を漂った彼は遠くに浮かぶ筏の群れと、その上で軍刀を背負い部下に指示をだす中嶋の上官(といっても当時23歳だった中嶋より若い)小宮山中尉を見つける。体力がつきかけていた中嶋だったが、〝中尉殿が生きている〟と思うと不思議なほど力が湧いたという。

太いロープで繋がれた筏の群れに多くの将兵が這いあがっていた。しかし、三角波が襲ってくるたびに確実にひとり、またひとりと波間に消えていく。同じ部隊の後輩も姿を消し、軍刀を背負いテキパキと指揮を執っていた小宮山中尉もいつの間にか消えていた。最盛期で50人を超えていた人数も、大きなうねりが襲ってくるたびに確実に少なくなっていく。

翌20日には救助船が駆けつけるも、中嶋たちの筏にまで救助の番はまわってこなかった。救助船も潜水艦に攻撃される危険を冒しての救助活動である。無理は出来ないのだ。しかし、嵐の夜を恐怖と不安にさいなまれながら生き残り、あと少しで救助されると思っていた矢先に置き去りにされた彼らの思いはどんなものであったか。

“待ってよと 血を吐くこえで 呼ばいつつ 水掻く兵ら 涙ぬぐえず
もう見えぬ 船よばいつつ 筏こぐ 狂いしごとく 竹筏こぐ”

大学で文学を学んでいた中嶋はこの時のことを回想し、このような歌を詠んでいる。希望は潰えた。ここから多くの兵たちの絶望的な漂流生活が始まる。容赦なく照りつける8月の太陽は、遮るもののない筏の上の男たちの皮膚を焼き、火傷を負わせる。暑さは即、乾きへとつながり、我慢できず彼らは海水を飲み始める。兵たちは茶色い尿をするようになる。

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