今は昔、「貴賓室」もあった西那須野駅の黄金時代 一時期は私鉄が複数乗り入れ、皇族も利用した

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西那須野駅が開業したことで、人の往来は街道から鉄道へとシフトした。これを受け、鉄道のルートからはずれた旧城下町の大田原から鉄道を誘致する声が出るようになった。また、塩原温泉郷からも交通の便を向上させようと鉄道建設を望む声が上がった。

有志たちによって、鉄道敷設願が繰り返し提出された。その計画のほとんどは、西那須野駅を軸に東は大田原、西は塩原温泉郷を結ぶものだった。資金・人的両面で協力すれば規模の大きな鉄道を建設でき、それが地域の発展につながると考えられたが、大田原と塩原では鉄道に対する温度差があり、意見は一致しなかった。

それでも住民たちは鉄道を諦めなかった。城下町であり宿場町としても栄えた大田原は、地元住民の粘りで1908年に西那須野―大田原間約5.1kmを結ぶ那須人車軌道を開業した。

人車軌道とは人が車両を押して動かす鉄道で、輸送力は小さくスピードも遅い。それでも開業10年後には1日36往復も運行するほど規模を拡大。1917年には那須軌道と改称して馬も併用するようになり、利用客は倍増した。だが翌年、並行する区間に蒸気機関車を運行する東野鉄道が開業すると乗客は減少。1930年に営業を休止した。

東野交通のバス。2018年に関東自動車と合併した=2015年撮影(編集部撮影)

東野鉄道は当初思うように資金が集まらず、開業準備はもたついたが、まず1918年に西那須野駅―黒羽駅間を暫定開業。1924年に那須小川駅までが全通した。同鉄道は1968年に全線廃止となるが、その後は東野交通と社名を改めてバス専業の会社となり、2018年に宇都宮市を拠点とするバス会社、関東自動車と合併するまで存続した。

温泉郷の名を高めた御用邸

那須野が原に華族農場が生まれると、華族たちは別邸を建設。別荘地に近い塩原温泉郷は、避暑地・保養地として人気となっていく。華族たちが通うようになると、政府高官や財界人の間でも人気が高まった。

文人墨客も塩原温泉郷の名を全国に広めた。静岡県の熱海を舞台にした尾崎紅葉の『金色夜叉』は、塩原の温泉宿で執筆された。そのほかにも夏目漱石や谷崎潤一郎といった文豪が塩原温泉郷を愛した。

そして、その人気を不動のものにしたのが塩原御用邸の存在だった。三島の長男・弥太郎は1900年に別荘を大正天皇(当時は皇太子)へ献上。この別荘が整備されて御用邸となった。澄宮(後の三笠宮)崇仁親王が毎夏に滞在したことから、近隣住民たちは“澄宮御殿”と親しみを込めて呼んでいたという。

塩原御用邸があったことから西那須野駅にも貴賓室が設置されたわけだが、残念ながら貴賓室がいつ設置されたのかは記録が残っていない。ちなみに、黒磯駅の貴賓室設置は1926年と記録されている。

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