日本の醤油メーカーがインドに熱視線を注ぐ理由 規制緩和で「本醸造しょうゆ」が販売可能に

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こうして今や世界中で親しまれているしょうゆだが、輸出のルーツは江戸時代にさかのぼる。しょうゆを最初に口にした外国人はポルトガル人宣教師たちといわれ、後にオランダ商館の館員がコンプラ瓶に詰めて海外へ輸出した。長崎からはオランダ船と中国船で運ばれ、主に中国本土、東南アジア諸国で使われていた。当時はインドにも渡っていたという。やがてオランダ本国にも運ばれ、ヨーロッパの食文化に関わるようになった。ルイ14世の宮廷料理にも隠し味に使われていたという話が伝わっているほどだ。

当時の文献にしょうゆに関する記述がいくつか散見される。オランダ商館医として長崎に滞在していたカール・ツンベルク(スウェーデン人)の『ツンベルク日本紀行』(山田珠樹訳)にはこんな記述がある。

「(日本人は)非常に上質の醤油をつくる。これはシナ(中国)の醤油に比して遥に上質である。多量の醤油がバタビア(ジャカルタ)、印度(インド)、及び欧羅巴(ヨーロッパ)に運ばれる」(※キッコーマンのホームページ参照)

海外進出は昭和の高度成長期に本格化

そんな黎明期を経て、しょうゆの国際化が本格化するのはずっと後、昭和の高度成長期に入ってからだ。海外進出の起点は、1957年(昭和32)にキッコーマンがサンフランシスコに販売会社を設立し、本格的にマーケティング活動を開始した時期にさかのぼる。

肉としょうゆの相性のよさに着目し、スーパーの店頭でしょうゆに漬けた肉を焼いて試食してもらうデモンストレーションを展開する一方で、さまざまなレシピ開発を進めた。こうした地道な活動が、やがて日本の照り焼きに由来する「Teriyaki」ブームを1960年代に引き起こし、しょうゆ文化をアメリカに定着させたのである。

キッコーマンの広報担当者が当時の状況をこう語る。

「(昭和30年代の)高度成長期前夜、当社のビジネスの8割は国内のしょうゆ事業でした。たとえば給料が倍増してもしょうゆを使う量は倍にはならないわけで、人口増のペース分ぐらいしか伸びが見込めませんでした。これでは会社の大きな成長が望めないということで、国際化と国内事業の多角化という2つの戦略に乗り出したのです」

こうして、まずはアメリカ向けのしょうゆの輸出販売を本格させていったキッコーマンは、市場が拡大していくなか、1973年にウィスコンシン州に工場を建設し、現地生産に踏み切った。同社のヨーロッパへの本格進出は1970年代から始まり、アジア・オセアニアは1980年代から市場を開拓し、1984年にはシンガポールに製造拠点となる工場が完成した。

1950年代から始まった国際化戦略で、直近の連結業績(2020年度)をみると、売上収益は海外が65%を占めるまでになった。海外の売上収益のうちアメリカが71%、ヨーロッパが12%、アジア・オセアニアが15%となっている。

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