「京都に死ぬほど憧れた」女子が捨てなかった夢 「更級日記」の筆者が本当に伝えたかったこと

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【イザ流圧倒的訳】
「どうして、俺がこんな辛い目に合わなきゃいけないんだよ。故郷では、いくつも作り置いてある酒壺に、瓢箪(ひょうたん)をたてに割った柄杓をさし渡して、今頃その瓢箪は南風が吹けば北になびき、北風が吹けば南になびき、西風が吹けば東になびき、東かぜが吹けば西になびくんだろうに……。嗚呼、あの景色が見たいよ……」と青年がぶつぶつ言っていたが、ちょうどそのときに、大切に育てられた帝の御娘は、たった1人で、御簾の際まで出てきて、柱に寄りかかって外を見ていた。男の独り言を聞いて、「まあ、なんて面白い! その瓢箪はどのようになびくかしら……みてみたいわ」と興味をそそられたので、御簾を上げて、男を呼びかけた……。

青年は単に「風になびく」とだけ言えばいいのに、わざわざ東西南北を明記しているところがしつこくて、いかにも愚痴っぽい。そして、目にしたことないきれいな風景を思い浮かべながら世間知らずの箱入り娘は、その稚拙な言葉にも耳をそばだてる。そのかわいらしい様子が生き生きと描かれている。

「武蔵の国」へ向かった2人の運命はいかに

本来であれば住む世界が違うので、急に話しかけられた男性は驚くが、「瓢箪が見たい」という姫宮の願いを真摯に受け止めて、彼女を担いで故郷の武蔵の国に向かって全力で走り出す。姫様がいなくなったら絶対に大騒ぎになるとわかりつつも腹を決めた青年は、追いかけてくるだろう兵士たちを少しでも遅らせるために橋を壊したりして、7日7夜かけてやっと故郷にたどり着く。

案の定、娘の失踪に気づいた帝と后が心配になり、彼女を探し出し、やがてその居場所を突き止める。バレてしまったら、青年の命も危ないところだったが、姫宮が彼をかばい、前世の縁で結ばれているから許してほしいと親を説得して、彼と一緒に武蔵の国に暮らし続けるように頼み込む。

前世の縁とやらに非常に弱い平安人なので、帝も仕方ないと思い、2人の結婚を許すことに。そして、姫宮たちが亡くなってから、住んでいた屋敷が寺となって、「竹芝」と呼ばれるようになった。また、そのようなことがあったので、以降火焼屋には女性がいることになったそうだ。

武蔵の国の紫草を求めていた少女は、その殺風景な野原を眺めて興ざめていた。しかし、思いも寄らないところで新たな物語が彼女に手を差し伸べたのだ。竹芝の伝説を聞いたが最後、彼女は再び物語の世界に吸い込まれて、青年の独り言を盗み聞きしていた姫宮と同じように、魅了されていくのである。

『更級日記』に書かれている話は、伝聞になっているが、その様子を細かく再現しているのはもちろんサラちゃん本人だ。貴族ではないけれど、まっすぐな心を持つ青年、彼に引かれていく姫宮の心の機微、または彼女の目に映るのどかな田舎の街……。その伝説を聞いてからすでに何十年も経っているはずだが、サラちゃんの筆跡はみずみずしく、楽しそうに弾んでいる。それは、心底から物語や想像の世界に幻滅した人の書き方では決してない、と私は思う。

サラちゃんが夢を見ていた京都での生活は結果的にそう輝かしいものではなかった。憧れの仕事だった宮仕えにも馴染めなかったし、とうとうロマンスにも恵まれなかった。それでも、彼女は夢を見ることを諦めず、意外なところに隠れている素敵な物語に耳を傾けることもやめなかった。

ゴージャスな生活を目指して突っ走っている現代人は少なくない。誰だって幸せになりたいもの。しかし、遠くてキラキラと光る目的地もいいが、ときには道に迷いながら予期せぬ出会いを楽しむのも悪くない。菅原孝標女と同じように、道すがら胸キュンする瞬間一つひとつを記憶に刻まれたいものだ。

イザベラ・ディオニシオ 翻訳家

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Isabella Dionisio

イタリア出身。大学時代より日本文学に親しみ、2005年に来日。お茶の水女子大学大学院修士課程(比較社会文化学日本語日本文学コース)を修了後、イタリア語・英語翻訳者および翻訳コーディネーターとして活躍中。趣味はごろごろしながら本を読むこと、サルサを踊ること。近著に『悩んでもがいて、作家になった彼女たち』。

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