「京都に死ぬほど憧れた」女子が捨てなかった夢 「更級日記」の筆者が本当に伝えたかったこと

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日本全国に慢性していた、そのような「田舎コンプレックス」に最も苦しんでいたのは、間違いなく『更級日記』の作者として知られている菅原孝標女だった。ド田舎育ちの菅原孝標女(この連載では、作品のタイトルにちなんで「サラちゃん」と呼ぶことにしている)は、物心がついてから、とにかく自分の居場所は京都以外ありえないという妄想に取りつかれているのだ。しかし、光るものは必ずしも幸せをもたらせてくれるとは限らない。

9歳だった頃に、サラちゃんは家族と共に都を離れて現在の千葉県あたりに暮らすことになるが、微かな記憶しか残っていないはずの雅帝国、またはそこに出回っている物語という代物に対して強い憧れを持ち続けている。そして、地方赴任という悪夢が始まってから4年ほどが経ち、サラちゃん一家にようやく念願の帰還のチャンスが舞い込んでくるのである。待ちに待った吉報が届いたとき、少女が期待に胸を膨らませたことは想像に難くない。

田舎から脱出して京都に向かう最終目的は

そこから3カ月にも及ぶ長旅が始まるわけだが、日記全体の長さに対してその記録に充てがわれたページ数が多く、物語の中の物語のような構成になっている。

当時は移動する機会が多かったと言えないわりに、旅の体験をまとめた、いわゆる「紀行文」というジャンルはポピュラーだった。しかし、残されている作品のほとんどは男性の筆によるものであり、どちらかというと京都を出て名所めぐりをするような内容が一般的だったという。

田舎も捨てたもんじゃないね、と心にもないことをスラスラ書いて、引用文を随所に散りばめて、文学への造詣の深さを見せびらかすようなものばかり。それらの作品と違って、サラちゃんがたどる行程は逆になっており、(ほぼ……)まっすぐに憧れの地に向かって進んでいる。それはまさにサラちゃんらしいひねり方だ。

さらに、その旅は物理的な移動にとどまらず、彼女が大人になっていく過程も示唆していると思われる。田舎のリンボーから脱出して京都に向かう最終目的は、自分や家族にとってふさわしい結婚相手を探すためだ。旅の終わりに待っているのは、初めての社会デビューであり、新たな世界へと通じる扉。物語から出てきたような殿方に出会えればいいな……という願いを胸に、サラちゃんは軽い足取りでその長い道のりを歩き始めるのだ。

菅原一家は40カ所以上に足を止めてゆっくりと旅を進めていく。面白いことに、そのうちの20カ所弱は有名な歌枕になっている。ところが、文学をこよなく愛し、純粋な心を持つサラちゃんは早速がっかりすることになる。

本物のセレブたちの行動範囲は、御所の総面積である東西約700メートル・南北1300メートルに限られていた。彼らは遠く離れた田舎の名所に関する伝説やうわさの信ぴょう性を確かめることに対して一切興味はなく、その文学的なイメージにこだわって、どしどしと歌の中にさまさまな地名を差し込んでいたのだ。だが、現実と想像がまるっきり違うということは、幼い夢見る子ちゃんにとって思いもよらない衝撃だった。

例えば「武蔵の国」。今の東京都と埼玉県にまたがる関東平野西部、多摩川流域から荒川流域あたりのところ、古文の世界では紫草の産地だとされていた。『古今和歌集』には「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る(紫草のその1本があるために、武蔵野の草はすべて好きになる)という歌もあり、その景色に乞うご期待。しかし、サラちゃんの目の前に広がった風景とは……。

次ページサラちゃんの前に広がった「武蔵の国」の現実
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