津谷祐司×楠木建 異色対談
コンテンツはストーリーと軸足
― UCLA映画留学から起業し成功した背景を深堀りする ―
UCLA映画学部に3回目で合格
英語は不得意、映画もわからない
楠木 津谷社長はUCLAの映画学部を経てゲーム制作会社を立ち上げるというユニークな経歴をお持ちです。留学した当初からそのようなルートを想定していたのでしょうか。
津谷 1993年にUCLAの映画学部に留学したときには映画監督を目指していました。アメリカでは映画学部は人気があり、UCLA、ニューヨーク大学、南カリフォルニア大学がトップスリーと言われています。中でも監督コースが最も人気で、定員20人の難関です。私も合格するまで3回受験しました。
映画は好きでしたが、映画では食っていけないこともわかっていました。本当に映画で食っていけるのは100人に1人です。必死に勉強しても、おカネが稼げない。この状況をどうやって打開していくのか、ずっと考えていましたね。
楠木 最初から映画監督として、そう簡単にやっていけるわけではないということを、割と客観的に考えていたのですね。起業をお考えになったのは、いつ頃ですか。
津谷 日本に帰国して2年目です。広告代理店に復職したのですが、そこで始めた新規事業が中止になったため、独立を考え始めたのです。ちょうど「津谷さん、映画をつくっていたんなら、ゲームつくれない?」と声をかけてくれる人がいました。
私は、ゲームは基本的にまったくやらないのですが、「映画っぽいストーリーゲームならつくれます」と企画書を書いて渡したら、OKが出たんです。
楠木 そのときご自身でゲームのストーリーをお書きになったのですか。
津谷 私はディレクターの立場です。SF小説家の方と組んで、私は絵作りやゲームとしての仕組みを考えました。「ストーリーの構成をこうしてください」「ここにヤマ場をつくったらいい」と指示をしたり、自分で絵を描いてイラストレーターに渡すなど、全体のシステムをコントロールしていました。
映画制作で学んだ視点が
新しいゲームづくりに幸いした
楠木 独立してからはどのようなお仕事をされたのですか。
津谷 会社設立後すぐに「バトル東京」(2000年)というゲームを作りました。それで賞をもらって、3億円の資金を集めることができました。
それは携帯では世界発のリアルネット対戦ゲームでした。ゲーム業界出身の人は二次元の狭い画面で考えがちですが、映画は、カメラがどう移動していくのかをフレームで考える。それがどうもゲームとして新鮮だったらしいのです。
いわば、彼らにはない発想を私が持っていた。映画はわかるが、ゲームがわからないことが幸いしたのです。
楠木 いきなりヒット作が出たのはよかったですね。その後会社の経営はうまく回ったのですか。
津谷 設立から4年間はずっと赤字でした。手元資金もわずかとなり、最後の賭けで女性向けのコンテンツに集中することにしました。世の中には女性向けのコンテンツが少なく、競合も少ないということに気付いたからです。そこでやっと赤字を抜け出し、その後は占いやデコメ、着うた・着メロサイトなどを経て、「恋愛」ストーリー型コンテンツ(現:恋愛ドラマアプリ)に特化したことで、その後の急成長のきっかけをつかむことができました。
恋愛ドラマアプリは当初は女子高校生向けのものでした。彼女たちは携帯の最も先進的なユーザーでしたから。ところが、5年もやっているうちに彼女たちが大学生になり、さらにOLになっていく。私たちも、ユーザーの成長に合わせてコンテンツをつくり替えているのです。現在の中心ユーザーは27~28歳の女性になっています。
楠木 コンテンツを絞ることで逆に成功の足がかりがつかめたのですね。その際、映画学部で学んだことは役に立ちましたか。
津谷 映画を勉強している中で、映画のストーリーとは、要するに「挑戦」と「恋愛」ではないかと思うようになりました。どちらも「幸せのかたち」を示している。最初に作ったバトルゲームにしても、その後の恋愛ドラマアプリにしても、挑戦と恋愛という基本線から大きく外れないようにしています。