みなが心酔「B・スプリングスティーン」の影響力 ウドー音楽事務所の伝説のツアマネが回顧

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――相手の担当者と直接やりとりができると。

今はどうかわからないですが、少なくとも70、80年代ごろは、それができる会社はあまりなかった。例えば経費の面で、これはどちらが持つのか、というような話になったときに、これはマネジメント持ちでやってほしいといったような、腹を割った話し合いができるわけですよね。

あとは方向性。日本で受けるためにはどうしたらいいんだろうかというようなことをサジェスチョンをしたりとか。そういう中で、お金だけではないような信頼関係を結んでいけたんだと思います。そこがうちの会社の強みですね。

髙橋氏(左)が若い頃に撮影したブルース・スプリングスティーン(右)とのツーショット (筆者撮影)

――そうした信頼関係の積み重ねが今につながっていると。

逆に海外に行ったときの対応が違います。エリック・クラプトンのときも、ビリー・ジョエルのときも、ジェフ・ベックのときもそうでしたね。僕らのことを特別扱いしてくれる。一緒に来た人が、それを見てびっくりしていましたね。あるとき、「なんでこんなによくしてくれるの?」と聞いたら、「俺たちが日本に行ったときに、お前らもちゃんとしてくれたじゃないか。だから俺たちもするんだよ」と。そう言ってくれるとうれしいですよね。

積み重ねが信頼関係を生む

――やはり積み重ねなんですね。

確かに積み重ねはありますね。そういう信頼関係はすぐにできるわけではないから。お金だけで信頼を得ようとしても、それは一時的なものだから。やっぱりわれわれはお金で買えないものがあると信じて仕事をずっとやってきたわけなんですよ。

――ブルース・スプリングスティーンの初来日は1985年でしたが、そのときはどのような感じだったんですか。

その当時、彼はアメリカで3時間以上コンサートをやっていたんですよ。でも日本では、コンサートはだいたい6時半から始まって、だいたい2時間くらい。9時には終わらなくちゃいけなかった。それで確か開演を6時に早めたと思います。

そのときはインターミッション(休憩)があったので、最初のほうで雰囲気を見て、盛り上がらないなと思うと曲を変えたりしていました。それで新しいプレイリストを作ると、すぐに関係者がこちらのプロダクションオフィスに来てバーッとコピーをする。そしてそれを照明のスタッフをはじめ、全部のスタッフに知らせるために配りました。照明もいろいろときっかけがあるわけだし、曲によってギターのチューニングを変えたり、ギターを変えなきゃいけない場合もありますからね。

――そこまで大幅に曲が変わるのも珍しいのでは?

普通はせいぜい頭の曲か、真ん中の曲か、最後の曲か、それかアンコールの曲など、どれか1曲をどうしようかとなるんだけど、ブルースの場合は、もっと変わるから。バックバンドが大変だと思います。すべての曲を知らないと、対応できないでしょうからね。

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