新宿区の閑静な住宅街に建つ「アトリエ」を散策 2つのアトリエを360度カメラで撮影した

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(編集部撮影)

絵画を描くのが目的のアトリエ空間には、光が直接差し込まない北側に大きな窓があることが好条件となる場合が多い。この建物もそれに従ったもので三角屋根の破風部分まで届く北側の大きな窓が特徴だ。

復元されたアトリエ空間には、「下落合風景」の作品複製が多数展示され、大正末から昭和初期のこのあたりの様子を知ることができる。

帰国後の佐伯は、洋行帰りということで画家として評価されるようになったが、その後もフランスへの思いを絶ちがたく、昭和2(1927)年8月に再びパリへ向かう。しかし、翌年8月に肺結核で亡くなるのだ。

夫人は40年以上この家を守った

米子夫人は、夫を亡くした2週間後に一人娘である6歳の彌智子(やちこ)もパリで失い、その遺骨とともに帰国。あまりに悲しすぎる話だが、その米子夫人は佐伯の没後、40年以上、太平洋戦争の戦渦もくぐり抜け、画家として創作を続けながらこの家を守り続けた。

昭和47(1972)年、夫人の没後に新宿区立の公園となり、さらに整備されて現在のような記念館となったこの家は、アトリエのほか、今はウッドデッキになっている場所にかつて和風の母屋があり、そこが生活空間となっていた。庭があった部分などは現在、公園として整備され、大正・昭和の下落合で、佐伯祐三がその風景を描いていた当時をしのぶことができる。

その佐伯祐三のアトリエからJR 目白駅方向に5分ほど歩いたところにあるのが中村彝のアトリエ。こちらは大正5(1916)年築と、佐伯祐三アトリエの約5年前に建てられたものだ。

当時の中村は、画壇に登場して5年ほどの29歳だったが、新宿中村屋の娘である俊子との恋愛に破れ、失意のうちにそれまで創作を行っていた中村屋裏のアトリエを離れ、谷中での下宿生活を経て、支援者たちの援助によってこのアトリエを新築した。

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