マイノリティは理解よりも共生を求めている

放送界のダイバーシティを検証する

今後、多様性ということがさらに強調されるようになってくると、マイノリティは自らを防衛するためにとりあえず引きこもっておくという傾向が強まってくる気もします。正確に言えば、マイノリティのなかの一部にそういう傾向がより強まってくるということです。「マジョリティの言語で解釈される自分たちは、自分たちではない」と。

改めて言うと、多様性の問題はマジョリティ側の問題なのです。マジョリティ側が熱心に多様性の問題を強調すればするほど、日本の社会にある同調圧力も高まるわけです。同調圧力のなかで多様性を語るというのは、喜劇でしかないです。まず自分の頭で考えるという所作がない社会で、どれだけ多様性を言ってみても、根本的に馬鹿げた話になってしまいます。まずするべきことは、同調圧力の数値を下げることではないかと思ったりもします。

長いものに巻かれろという諺がありますが、長いものが今、多様性ということなら、ただそれだけのことなんですね。今のダイバーシティ、多様性を語る文脈というのは、上品に言えば「不十分」、下品に言えば「インチキ」です。

パターナリズムに陥るよりわからないままのほうがいい

LGBTのことを説明するときに、よく「こころの性」と「からだの性」という概念が持ち出されます。「からだの性」はまぁわかりますが、「こころの性」って何だと。私からすると「こころの性」なんてないんですよ。たとえばピンク色が好きなのが女の子で、青色が好きなのが男の子。それかよと。じゃあ、男の画家がピンクや赤を使って絵を描いたらおかしいのかという話になりかねませんからね。

マジョリティの側にもそういう話はあって、「オレは女の気持ちがよくわかる」と豪語している男を見たとき、そのとおりだと思う女はいないと思います。「こいつ馬鹿じゃねぇの」ってなりますよね。男と女の話に置き換えればよくわかる話が、ことマイノリティの話になると、「こころの性」の問題に置き換わってしまう。

いわゆるパターナリズムです。パターナリズムに陥ると、紋切り型の表現が横行するわけです。その段階ですべてひとごとになってしまう。「こころの性」「からだの性」はその典型で、それじゃあ「こころの性って何だ?」と突っ込まれたときに、何も言えなくなってしまう。

性的マイノリティの人たちがいろいろなことで困っていることが多いのは確かですし、メディアはそのことを浮き彫りにしていく必要はあるんですが、自戒も込めて、メディアというのはパターナリズムに陥りがちなのです。特にオピニオンリーダーというのはともするとパターナリズムに陥りがちな人が多いわけです。私はもっと謙虚になるべきだと思いますね。

性というものはそもそも二元化できるのかという議論も、一方であるんです。男の人に「どういう女の人が好きですか」と聞いてもみんなそれぞれ違うように、たとえばゲイの人にしても多様なんです。だけれども、おそらくLGBTのことがわからないから、わかりやすくしたいんだと思いますね。でも、わからないならわからなくていいんですよ。わからなくとも同等の人権があればいいという風にまとめたほうが、よっぽとスッキリすると思います。あるいはそのほうが助かるといいますか。変に「マイノリティの人たちにはこうしてあげましょう」とか言われると、困っちゃう当事者の方が多いんじゃないですか。

理解できないことなんて、世の中にいくらでもあるんだということは、むしろ一昔前の人たちのほうがわかっていたと思います。今は妙に、きっちりと二元化しないと気が済まない人が増えていて、それはけっして賢い態度ではない気がします。

(構成:鈴木健司)

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