丸ノ内線の地上走行は徳川家康のせいだった

東京の地下鉄が地上に顔を出す歴史的背景

丸ノ内線は、淡路町―御茶ノ水間で本郷台地の下の浅い所に線路を計画したら、徳川幕府によって造られた神田川の深い谷にぶちあたってしまった。急に川底まで深く潜ることもできないので、谷底近くに顔を出し、すぐにまた台地の下へと入っていくということになったのである。

四ツ谷駅は徳川幕府とさらに因縁が深い。家康は1607年江戸城本丸に天守閣を建てた後も本丸を囲む内濠の整備を進めた。さらにその外側に外濠を造る工事も始めた。外濠すべてが完成するのには、3代将軍家光の時代までかかっている。内濠や外濠は、途中何カ所か堤で仕切られ、区画ごとに内濠でいえば半蔵濠、千鳥ヶ淵といった具合に名が付けられている。

中央線の四ツ谷―市ヶ谷―飯田橋で線路に沿ってお堀が続いている。車窓からよく見え春には堀に沿って桜が咲くのでご存じの方も多いだろう。ここも江戸城の外濠の一部である。

四ツ谷駅は外濠の一つ、真田濠の中に造られている(一部、市ヶ谷濠にもかかる)。四ツ谷駅付近は小高い丘になっていて標高が約30メートルある。一方隣の市ヶ谷駅付近は標高約15メートルしかない。市ヶ谷駅前の市ヶ谷濠と真田濠の水面をほぼ同じにする必要があり、江戸時代に真田濠は丘を深く掘りこむ形で造られた。

そのため深い濠の底に造られた中央線四ツ谷駅のホームの両側は高い壁であり、新宿通りの四ツ谷見附橋が、ホーム(真田濠)をまたぐ形で横切っている。

中央線の上を丸ノ内線が走る

四ツ谷駅を出た中央線は、御茶ノ水方面へは外濠(市ヶ谷濠)沿いにたやすく進める。だが新宿方面に向かう場合は、真田濠がだいぶ方向が違う赤坂方面へと続いてしまっているため、堀の側面にトンネルを掘って堀から出る必要があった。そのため中央線は長さ300メートル以上あるトンネル(御所トンネル)を通ることとなった。

四ツ谷駅は、いちばん下にかつての国有鉄道だった中央線、その上に丸ノ内線、昭和40年代まではさらにその上の道路上に都電が走っていた。丸ノ内線が本来地上を走る中央線の上を走るというのはなんだか落ち着かない。

だが丸ノ内線の立場になってみれば、台地の下、浅い所を通常どおり通っていたら、突然、深く掘りこんだ濠の中に躍り出てしまったことになる。ここでお天道様の下に出たのは徳川家康が計画した工事のせいだ。しかも濠の底には、明治時代に敷設された鉄道まである。しかたなくそれをまたぎ、そこに駅を造った形である。

丸ノ内線は四ツ谷付近でも地上に顔を出す(筆者撮影)

日中に丸ノ内線に乗っていて、四ツ谷や御茶ノ水を通る時、突然車窓が明るくなる。今地上に出たのだとすぐわかる。その時、江戸時代の史跡の中にいるのだと思いを馳せてみるのはいかがだろうか。

昭和40年代以降、東京には多くの地下鉄路線が建設されていった。それらの工事では、地下深くシールドマシンが掘り進むシールド工法が主流となった。深い所を通るのが多いので、地下鉄は地上に出ることがない。歴史ある丸ノ内線や銀座線は、江戸時代以来の都市づくりや、地下鉄建設工法の変遷など、さまざまな歴史を秘めている。

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