満員電車での通勤は、かつて「命懸け」だった 会社苦いかしょっぱいか

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本書の中でもっとも興味深かったのは、通勤電車の混雑について。確かに今でも満員電車はサラリーマンを憂鬱にさせるひとつだが、高度経済成長期の混雑ぶりは比較にならないほど深刻だった。

この前、午前8時くらいの丸ノ内線に乗っていたら、大学生らしき二人組が「満員電車、マジやばい」と漏らしていたが、車内は満員で窮屈ながらも、吊革につかまっていれば新聞を何とか読めるレベル。これがだいたい混雑率200%。乗車しようとドアから入った者が外に押し戻され、戻されつつもおかしな体勢で乗車できるのが250%。1960年代はその上をいく、300%だったのだ。

300%とは想像もつかないかもしれないが、1965年の朝日新聞には笑ってしまうような記事が掲載されているという。一車両にどれだけの人間が詰め込めるのか、体にどのような影響が出るのかを調べた実験をレポートしたのだ。乗客として参加したのが、陸上自衛隊習志野第一空挺団の隊員600人。もはや混雑率が100%に達しなくても暑苦しい、強力すぎる布陣ではないか。

当時の一両あたりの定員は144人。実験では492人まで詰め込んだところで、中止命令がでる。片足が宙に浮き、窓際の人々はみな窓枠に手をつき、車体が壊れると判断したからだ。

通勤するのも命がけ

ところが、驚いてはいけない。国鉄が実際に走行中の中央線の通勤車両を調べたところ500人以上が乗っていたという。おいおい、死人はまだしもけが人でも出るんじゃないかとの考えが浮かぶが、実際、無事に電車を降りられないケースもあったのだ。

現代ほど窓ガラスの性能も良くないため、毎日100枚以上の窓ガラスがばりばりと割れ、怪我するなど日常茶飯事。中にはラッシュで押しつぶされ、子宮が裂けて緊急搬送されるなどのケースも。けがを負わなくても、ラッシュに揉まれ靴をなくす乗客も。そんなバカなと思われるだろうが、1962年には秋葉原駅で草履とサンダルの貸し出しを始める。毎日、6、7人が利用していたというから当時の満員電車は靴をなくしかねない場所だったのである。

1973年には埼玉県の上尾駅で国鉄職員のストライキにより、電車が止まったまま動かない状態になったことで、暴動が起きたという。駅設備や電車が片っ端から破壊され、機動隊まで出動したというから通勤するのも命がけである。

けがをしてでも靴が脱げても、暴動を起こしてでも会社を目指す姿勢が日本の高度経済成長期の正しい会社員の姿であったのかと思うと何だか複雑である。耐えがたきを耐える精神はこのころは健在だったのである。

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