「年金の神様」が失脚、次官を目前に厚生省を去る 年金を巡る攻防の全記録『ルポ年金官僚』より#3

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「『国民年金証書』と書かれた緑色の通帳の間に受け取った4千円を大事そうに挟んで『これで孫におひな祭りのお菓子でも買って帰ります』とホクホク顔」(『読売新聞』1960年3月3日付、夕刊)

最大労組の反対闘争

だがそれもわずかな間だった。拠出制年金スタートが近づくと、反対運動の火がくすぶり始めるのだ。一気に炎が燃え上がるのは、安保反対闘争の終焉によってである。

岸信介総理が踏み切った日米安全保障条約改定を巡り、全国各地では、再び軍国主義化するかもしれないと、大規模な安保反対闘争が勃発した。1960年6月、条約は自然承認され、岸は刺し違えるように総理の座を降りる。行き場を失った安保闘争のエネルギーが、国民年金に注がれたというわけだ。

古川は実は、安保闘争に一度だけ参加している。国の方向が変わろうとする時に、自分が何のアクションも起こさなくていいのか、それは自己否定ではないか、と感じたからだ。昼休みにオンボロ庁舎を抜け出し、目と鼻の先の日比谷公園から出発するデモ隊に合流した。国会方面、銀座方面の二手に分かれており、バレたらクビになるだろうから銀座方面に向かった。

若気の至りであり、古川は厚生省退官直前まで周囲に黙っていたというが、当時の若者の行動としては珍しくない。

運動の中心となったのが、総評(日本労働組合総評議会)である。1950年に結成された日本最大の労働組合の中央組織で、「昔陸軍、今総評」と称され、その頃は絶頂期であった。岸退陣の翌日、総評は反政府エネルギーを拠出年金反対闘争に引き継ぐ方針を決定。

ただ古川が気を揉む必要はなかった。小山局長自ら、矢面に立ったためだ。

岸の後に総理に就いた池田勇人が地方遊説中、反対派のデモ隊に取り囲まれる騒ぎがあった。そのニュースを部下から聞いた小山は、顔色ひとつ変えずこう語ったという。

「君らも苦労しているだろうが、お互いがんばろう。こんな問題のために次官や大臣に心配をかけてはいけない。局長限りの責任と判断で何とか解決したいね」

7月29日には、組合員約500人を動員して、厚生省に集団陳情が行われた。

小山は、オンボロ庁舎の国民年金課、福祉年金課の前にある部屋に案内した。腰かけると、バネのビューンと音がするソファがあり、それに互いに座って対峙するのである。運動員が小山を取り囲み、がなり立てるから、交渉にならない。小山はトイレに立つこともできなかったが、逃げ出すことはなかった。

1961年4月1日、火だるまの状態になりながら、拠出制の国民年金はスタートした。

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