病のために湛山はわずか65日で首相の座を降りるも、療養を続けながら東側諸国との関係正常化に力を注いだ。1959年、湛山は訪中して周恩来首相と会談し、「石橋湛山・周恩来共同声明」を発表する。日中国交正常化が実現するのは1972年になってからだが、その下地を築いたのは、ほかならぬ湛山だった。
さらに湛山は1961年、米ソ冷戦で世界が引き裂かれていたさなかに「日中米ソ平和同盟構想」を発表し、3年後の1964年にはソ連訪問を実現している。「西側か東側か」と、どちらか一方の陣営と友好関係を築くやり方は日本の将来にとって現実的ではないと考えたからだろう。通商国家として生きていく覚悟ともいえる。
米中対立についても、もし湛山が生きていたら、アメリカ一辺倒の日本外交とは違った独自の提案をしているのではないか。
宏池会と湛山の因縁
中国の習近平主席は3月にロシアを訪問し、ウクライナとの和平交渉について「建設的な役割を果たす」として仲介に関与する姿勢を見せた。4月には、宿敵同士だったサウジアラビアとイランが中国の仲介で接近するシーンもあった。
日本の外務省が実施する、海外での日本への意識を調べる「ASEANにおける対日世論調査」(2022年1月実施)。その中の「今後の重要なパートナー」の1位となったのは中国(48%)で、日本(43%)は2位に甘んじた。前回(2019年)の調査では日本(51%)が1位で中国(48%)が2位だったので、トップが入れ替わった形だ。
G7広島サミットの議長国である日本が、対立を強調するのではなく協調を旨とした新構想を打ち出さなければ、アジアにおける日本のプレゼンスはさらに低下するだろう。
岸田文雄首相が会長を務める宏池会(岸田派)の先輩である宮澤喜一元首相は、湛山の薫陶を受けた政治家の一人といわれ、湛山を尊敬していた。湛山がGHQ(連合国軍総司令部)と交渉するとき、お供をしていたのが宮澤で、後に「石橋大蔵大臣が占領政策に公然と反対を掲げながら抵抗された姿をよく覚えている」と語っている。
宏池会の創設者である池田勇人元首相は、湛山が大蔵大臣のときに大蔵事務次官に抜擢され、その後の石橋内閣では大蔵大臣に任命された。
こうした湛山と宏池会の歴史的なつながりを岸田首相ならびに、首相側近で、やはり宏池会の木原誠二官房副長官が知らないはずがない。岸田政権誕生から間もなく2年。衆議院議員任期も折り返し地点へと向かう中、岸田外交は独自路線を打ち出せるか。今年2023年は湛山没後50年の節目。何か因縁めいたものを感じる。
6月1日に開かれた石橋湛山研究会第1回の講師に招かれたのはアメリカ人のリチャード・ダイク氏。ハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授の下で学んだダイク氏は、東京大学の宇沢弘文氏との縁もあって石橋湛山に興味を持ったという。目下、「石橋湛山評論集」の英訳作業中で、今年中にアメリカで出版する計画だという。
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