江戸時代の六本木は、その周りをかこむ赤坂や青山、飯倉といった場所同様、武家屋敷がならぶエリアだった。六本木通りなどの名称はその頃からあり、また、今回注目している七丁目は昭和42年頃まで龍土町と言われ、江戸切絵にもその表記が確認できる。
武家屋敷の広大な区画と、庶民の住まいが混在するその歴史は、現在でも、ビル群や大使館、大学、文化施設などと、商店・住居がバランスする街並みへ通じるものがある。
明治以降、広大な敷地は軍の施設に適応することとなる。第二次大戦を境に米軍関連の施設や防衛庁舎となるが、その後は文化的個性を強く発するエリアに変貌する。
たとえば現在の六本木交差点あたりに作られた俳優座。昭和29年4月のことだ。劇団員の映画やテレビへの出演料などで建てられた劇場は「芝居を上演するのに適したように舞台裏を充分にとり、いかにも自ら使用する劇団のつくった劇場にふさわしい設備をととのえている」(港区史)と評された。ちなみに個性派として知られた地井武男と原田芳雄は同じ俳優座養成所15期卒業生だった。
また、少し南に離れるが、麻布方面に目を向けるとイタリアンレストランの草分け、レストランキャンティも見えてくる。昭和35年4月の創業以来、映画監督や作家、音楽家、デザイナーなど各界の文化人が集まる「伝説のレストラン」だ。キャンティはパリにあるカフェ・ドマゴのような文化交流のサロンとなっていくが1980年代には「キャンティ族」という言葉も生まれ、店には背伸びをしたい年頃の若者が夜な夜な集うようになる。彼らはキャンティで大人の世界に触れ、一流の所作を学んだ。文字通りキャンティは文化の発信地になっていた。
そして六本木七丁目。
このエリアが戦後、ゆるやかに、また豊かな発展を遂げつつある。
明治22年に麻布区材木町(港区六本木七丁目)へ神殿が移設された出雲大社東京分祠など歴史情緒を感じる空気、そして落ち着いた住宅地を抜けると、緩やかな坂の上に、国立新美術館をのぞむ。もともと東京大学生産技術研究所と物性研究所が存在していたこの土地は、古くから学問や研究の盛んな場所であった。
戦後の文化芸術の発展にともない、設立が熱望された国立新美術館。同館の企画展は多くの人気を集めることで知られ、年間来場者数は120万人に届く勢いだ。
また、そのとなりの敷地に設立された政策研究大学院大学では、公共政策や開発政策、地域政策、文化政策などのプログラムが設置され、現役の官僚や地方公務員たちが政策研究や専門的政策立案を学んでいる。
このエリアを俯瞰で見れば、他にもさまざまな開発が進む。防衛庁の跡地に建設され、港区の顔となった東京ミッドタウンの向かいには、有名ラグジュアリーショップやオーガニックな素材で日本上陸が話題になった人気のコーヒーショップをテナントに構える商業施設が間もなく誕生する。六本木七丁目のあたらしいランドマークの出現だ。
歴史と先進性の共存する新しい街へと変貌を遂げようとしている六本木七丁目。文化芸術と流行の交差点。それでいて都会の喧騒とは一線を画す。こうした風土を楽しむことができるのもこの街の魅力だ。