「みんな仲良く」は幻想にすぎない
小学校は、「同じ地域の同年齢」という偶然により半強制的に集められただけの集団です。現実の教室には、性格も価値観も相性もまったく違う子どもたちが集まっています。
そんな多様な人間の集まりで「みんな仲良く」などというのは、どだい無理な話です。「仲良くしなさい」と命じれば、摩擦や不信感を抱く関係までも“仲良し”の仮面で覆い隠すことになります。そんな都合のいいことができるはずがありません。表面は笑顔でも水面下では不満や反発が蓄積し、陰湿な関係悪化に発展することもあります。
この「みんな仲良く」という言葉は、一見平和的ですが、実は強烈な同調圧力を内包しています。8月15日の終戦の日を迎えるたびに思い出すのは、かつての日本社会も異なる意見を許さない空気が戦争を加速させたという事実です。小さな教室にも、その縮図は今も存在します。
戦時中の学校では、朝礼で同じ歌を歌い、同じ方向を向き、同じ言葉を声をそろえて唱えることが日常でした。そこでは「違う考えを持つこと」自体が危険視され、子どもたちは自分の本音を押し殺すことを覚えていきました。現代の「仲良く」の強制には、この“そろえる教育”の影が色濃く残っているように感じます。
必要なのは「仲良く」ではなく「共存」
「仲良くなれたらすばらしい」という気持ちは否定しません。しかし、現実的に子どもたちに求めるべきは、「好き嫌いを超えて協働できる力」です。

千葉県公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小などを経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆のほか、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話などを行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。ブログ「教師の寺子屋」主催。著書に『不親切教師のススメ』『不親切教師はかく語りき』(ともにさくら社)
(写真:松尾氏提供)
例えばかつての私のクラスで、何かにつけて気が合わず、トラブルになる2人の男子と女子がいました。休み時間には距離を置き、必要最低限の会話しかしない関係です。
しかし、体育でたまたま同じチームになったとき、私はあえて別の子と入れ替えず、そのまま進めてみました。球技の得意なこの男の子のほうは、苦手な女の子に何かと教えてサポートしたり、ゲーム中には積極的にパスしたりしています。そしてゲームに勝ったときには、一緒になって喜ぶ姿を見せていました。
お互いを「好き」にはならなくても、必要な場面で力を合わせる経験はできます。この「必要なときに協働する力」こそ、将来の社会で不可欠です。
好きな相手がいてもよいのと同様、嫌いな相手がいてもよいのです。ただし、だからといってやたらとそれを主張したり、差別行為をしたりしていいというわけではありません。
この考え方は、戦時中の「国民は一つ、心を合わせよ」という教育とは真逆です。当時は異なる考え方を排除し、従わない者を非国民と呼びました。
その反省から、戦後の教育は自由と多様性を尊重する方向に進んだはずです。しかし現場では、形を変えた同調圧力――「仲良く」という名の強制が今なお残っています。
実際、私もかつて休み時間に必ず「みんなでドッジボール」をするのが恒例になっている時期がありました。一見、仲が良く見える光景ですが、運動が苦手な子やボールが怖い子にとっては地獄の時間です。「やらない」という選択をすると、「ノリが悪い」「協調性がない」といった視線が向けられ、断れない雰囲気が生まれます。
こうした“全員参加”の空気は、仲良く強制と同じ構造を持ち、無意識のうちに子どもを追い詰めてしまいます。私はこの経験から、物理的にも心理的にも距離や選択肢を確保することの大切さを痛感しました。
多様性を認めるということは、多様性を認めないという考えの人の存在も認めるということです。
「1人でいたい人」も「集団でいたい人」も、その間の人も、すべての存在を認める。それは必ずしも“仲良く”を意味しません。むしろ距離感を保ちながら安全に共存できる関係こそが、多様性を認めるということです。
戦時中の日本が失敗したのは、異質な存在を認めなかったことです。戦後の教育でも、大人の安心や国家の都合のために子どもを均一化し、その結果、社会は硬直化しました。教室でも同じ轍を踏むべきではありません。今の教育は子どもが健やかに生きるためにあるべきです。
そのためには、教師が意図的に「多様な組み合わせ」を設計する必要があります。例えば班編成や席替えでは、複数の価値観や性格が混ざるようにします。同時に、役割分担では全員が自分の得意分野を発揮できるよう配慮します。
こうした工夫は、好き嫌いを越えて成果を出す経験につながり、子どもたちに「いろんなタイプの人と関わることが大切だ」という実感を与えます。その感覚は、将来どんな環境に置かれても他者と協働できる力の土台になります。
「仲良くできない」も大切な学び
子ども同士がもめたり、グループができたりすると、つい「仲良くさせなければ」と介入したくなるのが大人の心理です。しかし、それは多くの場合、大人側の安心を満たすための行為にすぎません。
私が以前担任したクラスでは、班替えのたびに「○○さんとは一緒がいい」「あの子とは組みたくない」という声が出ました。そのときは、「仕事では組みたい人と一緒にできないのは、普通のこと。学校は社会の練習の場でもある。何事も経験だよ」と説明し、あえてランダムに編成しました。
最初は不満げだった子どもたちも、時間が経つと互いの得意分野を生かして役割を分け合い、意外な組み合わせが成果を出す場面も見られました。
私は常々子どもたちに、こう伝えています。
「苦手なら距離をとってもいい。でも悪口や仲間外れは違う」
「自分が100点満点で満足しているとき、陰で誰かが哀しんでいると思ったほうがいい」
必要なのは、仲が良いか悪いかには関係なく、必要な場面で協働できるようにしていくことではないでしょうか。
これは社会人の仕事と同じです。もし学校が「仲良くしなさい」だけを教え続ければ、将来、対立や価値観の違いに直面したときに立ちすくむ大人を生みかねません。「仲良くできない」状況にどう対処するかを学ぶことこそが、現実社会を生き抜く力になります。
「仲良くしなさい」という言葉に悪意はありません。しかし、その“善意”が子どもを追い詰めることもあります。戦争を経験した世代が異論を封じる怖さを知っているように、教室でも同じ過ちを繰り返してはなりません。
目指すべきは「誰とでもゆるくつながれる」関係性です。教室での共存の練習は、そのまま社会で異なる文化や価値観を持つ人と関わる力になります。戦争のない時代を生きる私たちは、その平和を維持する術を次の世代に手渡す責任があります。
形だけの仲良しではなく、違いを受け入れたうえでの協力こそが、本当の意味での「やさしさ」だと信じています。子どもが安全に意見を異にし、距離を置きながら共存できる――それこそが現代教育における“やさしさ”であり、平和を守るための小さな礎なのです。
(注記のない写真:Fast&Slow / PIXTA)
