最貧困地区の学校の再生物語

「型破りな教室」という映画を先日観てきた。アメリカの国境近くにあるメキシコ、マタモロスのホセ・ウルビナ・ロペス小学校で起きた実話をもとにした物語。教育関係者(教職員等)はもちろん、保護者や一般の方にも、おススメしたい感動作だ。公式ウェブページにはこう書かれている。

監督・脚本:クリストファー・ザラ、出演:エウヘニオ・デルベス『コーダ あいのうた』、ダニエル・ハダッド、ジェニファー・トレホ、2023年/メキシコ/スペイン語/125分/カラー/シネスコサイズ/原題:Radical、配給:アット エンタテインメント©Pantelion 2.0, LLC

「麻薬と殺人が日常と化した国境近くの小学校。子供たちは常に犯罪と隣り合わせの環境で育ち、教育設備は不足し、意欲のない教員ばかりで、学力は国内最底辺。しかし、新任教師のフアレスが赴任し、そのユニークで型破りな授業で、子供たちは探求する喜びを知り、クラス全体の成績は飛躍的に上昇。そのうち10人は全国上位0.1%のトップクラスに食い込んだ!」

映画の見方、楽しみ方は、人それぞれだが、この映画で多くの人が実感するのは、子どもたちの可能性と教師の力だと思う。フアレス先生の授業は、実に楽しそう。

「いま海の上にいると思って。ボートが人数分足りない。どうしたらよい?」「体重の重い校長が乗ったら、ボートはどうなる?沈む?どうして?」といった問いを投げかける。哲学的な問題や科学的なものの見方(浮力など)について、小6の子どもたちが自分たちなりに考え、調べ、対話しながら学びが進む。子どもたちの好奇心に火をつける授業に、観ている側もわくわくする。

〇〇が先、××は後…学校で最も大切にしたいことは?

もちろん、この手のストーリーテリングには、慎重な姿勢も大切だ。本当にいいことばかりなのか、取り残されている子もいるのではないか、再現性はあるのか(ほかの先生でもできるか)など、気になることもある。感動的な物語に引き込まれることで、ついよいところばかりに目が向きがちだ。

そうした点は留意しつつも、この映画から、私はとても学べることがあると感じた。1つは、「学校で最も大切にしたいことは何か」ということについてだ。

この映画では、ENLACEというメキシコの全国学力テストのスコアに執着する教員や教員の人事権をもつ自治体幹部の姿も描かれている。テストスコアによって教員のボーナスも変動するというのだから、無理もない。一部の教員はテスト問題をあらかじめ入手して不正を働こうとまでする。対照的に、フアレス先生はテスト対策には無関心で、子どもたちにも、テストのことなんて気にするなと言う。

遠い外国の話と思いきや、実は似た状況が日本にもある。2018年に大阪市では全国学力テスト(全国学力学習状況調査)の結果を教員のボーナスや学校予算に反映させるという方針を市長が打ち出して、物議を醸した。

別のある地域では、全国学力テストで、成績のよくない子を欠席にしたり(平均正答率を上げるため)、教員がテスト中に教えたりする不正が報告されたこともある。4月の新学期が始まって大事な時期に何度も過去問を解かせるなど、テスト漬けにしている学校も一部にある(とりわけ、平均正答率の高い上位県ではプレッシャーが非常に強い)。

もちろん基礎学力の定着は大事だし、テストの結果がよいことにこしたことはないが、テストスコアばかりを追い求めると、教育や学びがおかしな方向にいく場合がある。子どもたちも、私たちも、いったい、何のために学んでいるのか、教育しているのか、わからなくなる。

まったく違う業界の話になるが、映画を観ながら、私は、ヤマト運輸が1970年代に宅急便を始めたときの経営術について思い出した。当時の小倉昌男社長が社内でしきりに呼びかけ、徹底したのが「サービスが先、利益は後」というメッセージだった。

利益のことばかり考えていると、社員の多くはサービスについてほどほどでよいと思うようになり、サービスの差別化ができない。すると、収入も増えず、結果としては利益も出ない。逆に、翌日配達を徹底し、宅急便がすごく便利で安心できるサービスだと認識されれば、使う人が増える。

使う人が増えると、面積の小さな範囲で集荷・配達等を効率的にできるようになるから、次第に損益分岐点を超え、利益はあとで付いてくる。こういう発想、戦略眼の鋭さについては、経営者や経営学者の中にもファンは多いし、私も小倉氏の著書『小倉昌男 経営学』(日経BP)を何度も読み返している。

映画「型破りな教室」に話を戻すと、フアレス先生の授業では、子どもたちの好奇心や学びに向かう動機づけを重視する。自学自習を進める子たちや、児童が互いに学び合う風景も増える。そうした結果、学力テストでもしっかりスコアも取れるようになる。小倉昌男さんに倣って表現するなら、「子どもの好奇心が先、テストスコアは後」だ。

フアレス先生の授業では、子どもたちの好奇心や学びに向かう動機づけを重視していた

あれもこれも大事、並列思考の罠

学力テストのことだけではない。私たちの周りの日本の学校教育や教育政策について、ちょっと見渡してみると、優先順位がどうなっているのか、疑問に思えることはたくさんある。

学校の働き方改革も典型例の1つと言えるだろう。文科省も、教育委員会も、校長の多くも、勤務時間(在校等時間)を短くすることに躍起になっていて、時短が目的化していないだろうか。確かに、「働き方改革を通じて、教員の負担を軽減しつつ、授業準備等に取り組めるようにして、教育の質を上げていく」ことなどとは説明されている。

だが、多くの教育委員会では勤務時間がどれだけ短くなったかが成果指標の大半を占めるし、「早く帰れ」とばかり言われて、嫌気をさしている教職員も多い。

私は、別の記事でも紹介したが、教職員の健康確保という目的を前提としつつ、先生たちが自分たちの職場をよりよくするアイデアを対話を通じて出していき、できることからやってみることを重視する。参画なしで、押し付けだけでは推進力にならないからだ。やってみてよかったという実感を得ていく中で、改善は徐々に進む。結果として、時短につながることもでてくる。

妹尾昌俊(せのお・まさとし)
教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表
徳島県出身。野村総合研究所を経て、2016年に独立。全国各地の教育現場を訪れて講演、研修、コンサルティングなどを手がけている。学校業務改善アドバイザー(文部科学省委嘱のほか、埼玉県、横浜市、高知県等)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁、文化庁において、部活動のあり方に関するガイドラインをつくる有識者会議の委員も務めた。Yahoo!ニュースオーサー。主な著書に『校長先生、教頭先生、そのお悩み解決できます!』『先生を、死なせない。』(ともに教育開発研究所)、『教師崩壊』『教師と学校の失敗学』(ともにPHP研究所)、『学校をおもしろくする思考法』『変わる学校、変わらない学校』(ともに学事出版)など多数。5人の子育て中
(写真は本人提供)

別の例としては、見栄えを気にしすぎている卒業式だ。コロナ禍のときは簡素にしていたのに、最近では、来賓や保護者の反応を気にして、児童の呼びかけ(教員や保護者へのお礼の言葉など)や合唱を何度も練習させている小学校等も一部にある。これでは、誰のための、何のための卒業式なのか、わかったものではない。そんな学校で、「児童の主体性や自ら考える力を育てる」などと学校ビジョンには書いているのだから、言行不一致ではないか。

そうした学校のビジョンや経営計画(グランドデザインなど名称はさまざま)、あるいは文科省、教育委員会の計画を読んでいると、あれもこれも大事、という記述が多い。現に、国の定める教育振興基本計画(令和5年度~9年度)では「1.確かな学力の育成、幅広い知識と教養・専門的能力・職業実践力の育成」から始まり、16もの政策目標が列挙されている(その下に数多くの施策・事業がぶら下がっている)。

社会はこれだけ複雑化しているし、教育課題は山積しているし、子どもたちに身に付けてほしいこともさまざまあるから、「あれもこれも」となるのは、ある程度は仕方がないことだとは思う。だが、「AもBもCもDもEも大事です」という並列に挙げていくばかりでは、何がとくに重要なのかがわからないし、何を先に取り組めばよいのかという時間軸も見えてこない。そうした結果、やることはどんどん増えていくばかりになる。

なぜ、限られた数値目標ばかりに気を取られるのか

とはいえ、校長や教職員あるいは教育行政職員等の中には、「子どもたちの関心や好奇心を大切にする授業にしたいとは、前から常々考えてきた。学力テストの結果がすべてではないことなんて、わかり切っている」と述べる人も多いだろう。なのに、なぜ、テストスコアや残業時間といった、ごく限られた数値目標にとらわれた行動になってしまうのだろうか。

1つの背景としては、日本に限った話ではないが、政治家や国・自治体の財政当局(国でいうと財務省、自治体では財政課等)から評価される指標(物差し)として、テストスコアや勤務時間など特定のものが重視されるからだ。全国学力テストの順位が下がれば、議会や首長から批判される。残業時間が減らないのであれば予算は認められない、などと財政当局から言われる。

たしかに、テストスコアや残業時間などの数値目標や実績は、比較的わかりやすい。だが、政治家も財政当局、教育関係者も、特定の指標のみ重視することの弊害について、もっと重く見るべきだ。

しかも、映画「型破りな教室」が示すように、A(テストスコア)かB(子どもの関心、好奇心を高める取り組み)かという二項対立の話ではない。Bをまずやらないと、Aにつながらないという話だ。

「教育改革」が学校をさらに苦しめる

さて、日本のここ十数年の状況を概観すると、「AもBもCもDもEも大事です」と言い、しかも後になって「Fも今後はもっとお願いします」といったビルド&ビルドなスクラップのない学校経営や政策が幅をきかしている。「この数十年で学校でなくなったことと言えば、ぎょう虫検査と座高検査くらいだ」という皮肉なジョークがあるくらいだ。

こうなると、最前線の学校現場としては、すべてのことに全力投球なんてできっこないので、何かは手を抜いたり、カタチだけ整えてやったふうな感じにしたりせざるをえない。その様子を見た政治家や政策担当者(文科省、教育委員会等)の一部は、「まだまだ改革は進んでいない」「浸透していない」などと述べて、「教育改革」と称し、また学校のやることを増やしてしまう。

そんな悪循環をここ十年以上繰り返してきたのではないだろうか。

「型破りな教室」のベースとなった実話のヒントは、大人(とりわけ教職員や保護者)が子どもの可能性を信じること、「どうせこの子たちには無理だ」とか「家庭環境が劣悪なので、学校でいくらやっても」とあきらめるのではなく、「子どもは有能な学び手である」との信念で教育活動を行うことだろう。子どもたちの好奇心と自己効力感(自分はやればできるという感覚)を高めることで、学びへのモチベーションは高まる。

何を先にやるべきなのか、最重点はどこなのかを考えさせられるストーリーだ。ぜひ、政治家や財政当局、それから文科省、教育委員会の方も観て、自分たちのやってきたことを振り返ってほしい。

(注記のない写真:アット エンタテインメント提供)