「結局のところさぁ、文部科学省が悪いんだよ。あいつらがダメダメだから、いつまで経っても日本の教育はよくならないんだ」

教育談義では、よくこんな結論を耳にします。

「人間の価値を出身大学だけで決めるような社会。それを作ったのはあなたたち、教育行政ですよ!」

少し前に話題となったTBSの日曜劇場「御上先生」で、県内屈指の進学校である隣徳学院の古代理事長は、文科省出身の官僚教師である御上先生に、こう言い放ちました。

また、こんなエピソードがあります。文部科学大臣が幹部職員を集めて行う訓示で、大臣は幹部職員に向かって次のように言いました。

「『文科省は二流官庁だ』と言っている職員がいるらしいが、そんなことはない。しっかり誇りを持って仕事をしてほしい」

訓示が終わり、会場の講堂から執務室に戻る際、ある幹部職員が同僚に向かって「大臣は『文科省は二流官庁』と言ったけど、そんなふうに思ったことないよなぁ。俺ら『三流官庁』だよ」──。

諸悪の根源は文科省?なぜ今学校が苦しいのか

今から約20年前の2004年、僕は文科省に入りました。

寺田拓真(てらだ・たくま)
広島県総務局付課長、福山市教育委員会 学校教育部参与
早稲田大学法学部卒業後、2004年に文部科学省に入省し、教育改革の司令塔、教育投資の充実、東京オリンピック招致などを担当。2014年に広島県教育委員会に籍を移し、学びの変革推進課長として、教育改革の企画立案と実行、県立広島叡智学園中・高等学校の創設、ふるさと納税を活用した寄附金制度の創設、高校入試制度改革、高校生の海外留学促進などを担当。ミシガン大学教育大学院修士課程修了(2022年、学習科学・教育テクノロジー専攻)
(写真:本人提供)

そこから約10年間、教育改革推進室の専門調査官をはじめ、主に「教育改革畑」を歩みました。

その後、広島県教育委員会で教育改革の担当課長に就任し、県立広島叡智学園中・高等学校の創設などを担当。2021年には、修士号を取るためにアメリカの教育大学院(ミシガン大学)に1年半留学し、学習科学などを学びました。現在は、福山市教育委員会にて、教育改革の担当部長を務めています。

2023年には、単著を出版する機会もいただきました。タイトルは『教育改革を「改革」する。』。帯には、次のように書きました。「矢継ぎ早に『流星群』のように降り続く『教育改革』に負けない学校になるためには、どうしたらいいのか」。

冒頭のように、「諸悪の根源」のごとく評される文科省。そのことに入る前に、「なぜ今学校が苦しいのか」について、僕の考えを述べたいと思います。

まず、これまで約20年にわたり「教育改革」の仕事に取り組み、そして現在も教育行政に携わる者として、確信を持って言えるのは、「今、多くの学校は、変わろうとしている」「変わろうと、懸命に努力している」ということです。

学校教育に不満を持つ方々からすれば「遅すぎる」と批判を受けそうですが、考えてもみてください。大半の学校の先生にとって、学校というのは、「こどもの頃のステキな思い出が詰まった場」です。自身が児童や生徒として受けた教育や学校での生活が、つらい思い出ばかりだった人が、はたして「仕事として学校に戻ろう」となるでしょうか。

つまり、教師たちにとって、「教育改革」とは、思い出の否定であり、そしてある意味では自分自身の否定でもあるのです。そんな苦しさを抱えながら、それでも多くの教師たちは、自分自身と、そして目の前のこどもたちに向き合い、「よい教育とは何か」を問い続けながら、「変わろう」と努力しています。

学校現場に決定的に不足している5つのリソース

しかし、その営みは、残念ながら逆境の中にあります。David Cohenという教育学者は、次のように述べています。

We might expect only a little from those policies that try to improve instruction without improving teachersʼ capacity to judge the improvements and adjust their teaching accordingly, for such policies do little to augment teachersʼ resources for change.

~改善の方向性を判断し、それに従って具体の指導を改善するという教師の力量を向上させることなしに、(教室における)指導法を改善しようとする(行政の)政策には、ほんのわずかしか期待できないだろう。なぜなら、そのような政策は、教師に必要な「変化(成長)のためのリソース」をほとんど増強しないからである~

出所:Cohen, D.K.(1990).A revolution in one classroom: The case of mrs. Oublier. Educational Evaluation and Policy Analysis, 12(3),311–329. https://doi.org/10.3102/01623737012003311

 

ここにある教師に必要な「変化(成長)のためのリソース」として、僕が考えるのは、「(学校の判断で自由に使える)カネ」「ヒト(教師の質と数)」「(外部からの批判や介入から自らを守るための)盾」「自律性(教師の判断で実践を行う自由)」「成長の機会」の5つです。

それぞれの詳細は拙著をお読みいただければと思いますが、これら5つのリソースが現在の学校現場には決定的に不足しており、変わろうとする教師の前に立ちはだかるのです。

ここまでお読みいただいて「やっぱり文科省が悪いんじゃん。教育予算も増やさないくせに、現場の実態を無視した、教育改革のビジョンやプランばかり押し付けてきて」と思われたかもしれません。でも、ちょっと待ってください。

まず最初に申し上げておきたいのは、大半の(願わくはすべての)文科省職員は、私利や私欲のために働いてはいません。とくに若手の職員は、常に学校現場のことを第一に考えて、「何とか先生方の力になりたい」と、懸命に努力を重ねています。

ただ問題は、「システム」です。国の予算は、理屈よりも、永田町(政治家)も交えたパワーゲームの中で決まります。そこでものを言うのは、大義名分やきれいな理論よりも、霞が関の中での「騙し合い・化かし合い」です。

文科省の職員は、「愚直」とも言えるような、まっすぐでマジメな人が多く、巧みに権力を利用しようとする「御上先生」の塚田局長のような人は、むしろ他省庁に多く存在します。ましてや教育施策は、政治家の「票」になりにくく、また、その効果を定量的な数値(エビデンス)で証明することも困難です。

このような逆境の「システム」の中で、政治家や関係団体との関係性を無視し、「教育は未来づくり」とだけ言い続けていても、教育予算は永久に増えません。ですから、政治家や団体の思いや考えも、一定程度くんでいかなければなりません。

教育は、人の数だけ理念があり、団体の数だけ利害があります。結果、推進すべき「○○教育」がまた1つ増えたり、大臣が代わるたびに新たな「△△プラン」が出されたりと、現場への要求は増えていきます。つまり、単に学校現場の負担を増やすだけに見えるような施策であっても、現在の「システム」の中で文科省が、苦しみながらもがいた結果であるかもしれないのです。

今後も軸は「主体的・対話的で深い学び」

そのように考えれば、「『教育改革流星群』は、今後もやむことはない」ということが、ご理解いただけると思います。では、それを前提として、学校現場は、どのように立ち向かっていけばよいのでしょうか。

僕からの提案は「しなやかで、したたかな学校現場」になることです。文部科学省の「改革施策」に、前述のような背景があることを踏まえれば、それらは「きらびやかで新しいもの」であるかのように見せる必要があります。

しかし他方で、こちらも前述の通り、多くの文科省職員は、学校現場のことを考えています。その結果、新しい施策は、「一見新しそうに見えるが、実は、軸となるこれまでの方向性の範囲内のもの」となります。ですので、「教育改革流星群」が降り注ぐたびに、右往左往したり、辟易したりする必要はありません。現在で言えば、軸となる方向性は、「主体的・対話的で深い学び」。とにかく一点突破で、ここさえ目指していけば、恐れるものはないのです。

最後に、現在検討が進められている次期学習指導要領について、「Less is more」の理念に基づき学習内容を構造化し、現場の裁量を高めようとする方向性には、僕自身とても期待しています。

ただ、1つ加えるならば、指導事項の精選と、標準授業時数の削減に、何とか切り込んでいってほしい。それは単に、「現場が楽をするため」という発想ではありません。先ほど紹介した「『5つのリソース』の欠如」の図に戻ってください。

この改善の突破口となるのは、真ん中の「成長の機会」です。「一点突破すべき」と申し上げた「主体的・対話的で深い学び」を実現するのは、決して簡単なことではありません。現在検討されているような、標準授業時数や単位授業時間の柔軟化は、それはそれで進めてほしい。しかしそれだけでは不十分だと思うのです。

中央教育審議会の特別部会の委員でもある溝上慎一先生(桐蔭学園理事長)は、「改革を実現するために必要な教材研究や研修の時間を、学習指導要領の枠組みの中で明示的に保障すべき」と主張されています(YouTube「溝上慎一の教育論 動画チャンネル」)。

例えば、大学の1単位は、45時間の学修時間を想定していますが、これは、実際の授業30時間と、授業外の学修(自習)時間15時間の合計です。これと類似の考え方で、授業を行うために必要な準備(教材研究や研修)の時間を明記する。ただ、現在の標準授業時数にこうした時間を加えるのでは、より現場の負担が増し、現実的ではありません。

よって、現在の標準授業時数を上限として、その範囲内で、授業時数(指導事項)と教材研究・研修の時間の配分を検討する。そうすれば、教師に「成長の機会」が保障され、そしてその結果として、より質の高い「主体的・対話的で深い学び」の実現につながると思うのです。現場からの声として、文科省には受け止めてほしいです。

そうそう、最後にもう1つ大切なことを。冒頭、「御上先生」の古代理事長の台詞を引用しましたが、教育行政は、文科省だけではありません。

今、僕が籍を置く教育委員会も教育行政。むしろ、カギを握るのはここです。「結局のところさぁ、文部科学省が悪いんだよ」に単に頷くのではなく、「変化(成長)のためのリソース」を1つでも多く教師に届け、「しなやかで、したたかな学校現場」にしていくために、教育委員会の腕が問われています。教育委員会のみなさん、頑張りましょう。僕も、頑張ります。

(注記のない写真:takeuchi masato / PIXTA)