授業を犠牲にして準備するほどの価値があるのか

どの学校に赴任しても、卒業式の練習にはたっぷりと時間をかけている。小学校にとって、卒業式こそが6年間の集大成ということになっているのだ。

「立派な卒業式になるように、1年間頑張ってほしい」

6年生の担任になったある教員は、4月の学級開きでいきなりこんな言葉を口にしていた。立派な卒業式をクラスの目標にする意味は私にはわからないが、この教員にとって卒業式はそれほど大切な行事なのだ。であれば、時間をかけて準備をするのは当然、ということになるのだろう。

実際、時間をかけて卒業式の準備をしようと思えば、いくらでもそれができる。まず、子どもたちを体育館に移動させて、はじめに卒業式参列の心構えをたっぷりと説く。続いて式のあいだの椅子の座り方を徹底的に指導する。次に、起立と着席がてきぱきできるように繰り返し練習をし、そこから一人ひとりの返事の練習に移る......といった具合だ。

学校が特にこだわるのが、卒業式で合唱する歌の指導である。指導には、合唱コンクール以上に熱がこもっている。

さらにもう1つ、子どもたちそれぞれの「呼びかけ」も卒業式の華とされているため、手抜きはできない。

「この6年間、楽しい思い出がたくさんありました」

だいたいは感謝の言葉から始まり、

「私は将来、洋服のデザイナーになりたいです」

など自分の思いを口にする場面も登場する。

1人に一言ずつとなると、卒業する子どもの人数分のフレーズを前もって準備する必要があるし、スムーズに進んでも相当な時間がかかる。そのうえ練習の際には、声が小さくてセリフが聞きとりにくい子がいると、やり直しになったりもする。

こうした学年全体での練習に加えて、各教室でも返事の練習や呼びかけの声出しの練習、歌の練習を行っていて、合わせると計り知れない時間がかかっている。在校生が参加する学校の場合は、彼らと合同で一連の流れを練習することも必要になってくる。

その膨大な時間を算数の理解が不十分な児童の指導に充てることができたら、その子は中学校で苦しむことがなくなるのではないだろうか。作文指導の時間として使えれば、社会に出てからも役に立つ書くスキルが身に付けられるかもしれない。

そこまで具体的でなくても、たとえば現在、卒業式の準備に充てている時間を総合的な学習の時間にして、一人ひとりが自分の将来について具体的に考えてみる機会にしてもいい。未来を想定したうえで学習することで、子どもたちは幸せに生きるための術を身に付けられるのだ。

卒業式についても、やはりムラの掟のように、「卒業式に関して口出しするのはタブーである」、そんな暗黙の了解があるように思う。私は長いこと、あんなに時間をかけて準備するのは時間の無駄ではないかと考えているのだが、うかつにそれを口にすれば、「子どもたちにとって一生に一度の神聖な式を、先生は何だと思っているんですか」と、間違いなく非難の的になるだろう。

はたして卒業式に、そこまでの価値を見いだすべきなのだろうか。ときに授業を犠牲にしてまで準備に全精力を傾けることの是非を、今こそ議論すべきではないだろうか。

卒業式の練習は、何の役に立つのだろう

卒業式の練習をさせることで、子どもたちにどのような力が付くのだろうか。昔、先輩教員に尋ねてみたところ、少しの躊躇もなく、「日常とは異なる、厳粛な式に向かう姿勢!」という答えが返ってきた。

齋藤浩
齋藤浩(さいとう・ひろし)
神奈川県内公立小学校、児童支援専任教諭、佛教大学研究員、日本獣医生命科学大学非常勤講師を歴任。『保護者クレーム劇的解決 「話術」』(中央法規)、『学校に蔓延る奇妙なしきたり』(草思社)など著書多数。Instagram(hiroshi_saito4649)にて、保護者対応をはじめ教育関連の情報も投稿
(写真は本人提供)

はたして、そんなものが必要なのだろうか。以前、叙勲の式典に参列した知り合いに聞いたのだが、

「天皇陛下にも拝謁するのだから、特別な作法があるのかと思っていたんだよ。礼のしかたとか、じろじろ顔を見てはいけないとか、前もっていろいろ注意されるんだろうなと......。でも、実際には何の説明もなく、気づいたら陛下が式場に入ってこられていた。司会者がアナウンスをすることもなかった。何の前触れもなく式典が始まって、進んでいくんだ」

ということだった。

厳かな雰囲気ではあったが、決まりごとを守るのに汲々としているわけでもなかったようだ。もっとも厳粛と思われるような式典でも、そういうかたちで執り行われているのだ。

学校はいつも、子どもたちに「主体的であれ」と言っているのだから、卒業式の運営も子どもにまかせてみてもいいと思う。

式の流れは決まっているので、子どもにはみんなで歌う曲目と各自の呼びかけの言葉だけをまかせる、というのでは中途半端な主体性しか発揮できない。6年間の小学校生活の集大成が卒業式だというのなら、運営自体を任せるべきだろう。だが現実には、どの学校もそんな決断はできない。

6年生の担任だったとき、卒業式の練習についてどう思うか子どもたちに尋ねたことがある。

「寒い体育館で、長い時間ずっと座っていなくてはいけなくてつらかった」

「トイレを我慢していたので、とにかく早く終わってほしかった」

「歌の練習が大変で、途中で倒れそうだったけど頑張った」

 

これでは、まるで忍耐力を鍛えるために、長時間にわたって卒業式の練習をさせたようなものだ。体罰に近いようにも思える。

学校のもっとも重要な責務は、子どもたちが卒業して校門を出ていく日までに、しっかりとした学力を身に付けさせることだ。教員は、卒業式の練習に血道を上げる前に、その本来の役割を果たせたかどうか自問する必要がある。

卒業生それぞれがたしかな学力を獲得し、自分なりに未来の見通しをもって巣立っていく姿を見せられれば、それこそが素晴らしい卒業式ではないだろうか。大切なのは、体裁の整った儀式かどうかではない。卒業式の日までに子どもたちがどんな力を獲得できたのか、その過程にこそ学校は目を向けるべきなのだ。

儀式に時間をかけることに大きな価値を見いだしている学校は、いまだに何も変えようとはしない。おそらく変化が起こるとしたら、文部科学省が通達を出したときなのだろう。

毎年、卒業式の季節がやってくるたびに、子どもたちの未来が心配になる。

「こういうのがあるから、6年生の担任はいいんだよね」

卒業式が終わると、感極まった子どもたちが担任のもとに歩み寄ってくる。

「先生のおかげで、本当に楽しい小学校生活でした」

多少わだかまりがあった保護者が担任のもとにやってきて、笑顔で感謝の言葉を口にすることもある。

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6年生を受け持っていたある担任が、卒業式の直後に言っていた。

「こういうのがあるから、6年生の担任はいいんだよね」

たしかに、それはそのとおりだ。何かにつけて大変な教職。教員にも賞賛される時間は必要だし、こうした精神的報酬がなければ、やっていられないだろう。

だが、皮肉にもこうした「報われる経験」が、教師の判断を誤らせているようにも思える。 子どもたちや保護者の賞賛を得ようと、卒業式への取り組みをどんどんエスカレートさせる教員が少なくないのだ。

現在では、式の前に子どもたちの学校生活を振り返ったスライドショーを保護者に見せることが普通になっている地域もある。初めにどこかの学校が始めたのだろうが、やがて、「ウチもやろう。きっとみんな喜ぶ」ということになり、地域の学校に広まっていったものと考えられる。

一度始めてしまうと、やめるにやめられない。卒業式に参列する保護者は前の年の様子を聞いている可能性が高く、中止しようとすれば、「ええっ? 今年はスライドショーがないんですか」と批判の的となるのは必至だ。

当然、準備には相当な時間がかかる。だが、時間をかけすぎているように見える同僚に向かって、誰も、「やりすぎですよ」などという指摘はしない。

心の中では、あまり熱心にやってもらうと次(もしかしたら自分)が大変になるな、などと思っていても、「そこまで時間をかけられるなんて、本当に子ども思いなんですね」と、心にもない言葉で励まして、より相手を熱中させる悪循環も生まれてしまう。

前述のとおり、職員室の中には行事の準備に時間をかけることに対する批判はタブーという文化があるから、卒業式の準備に異常なまでの労力を注ぎ込んでいる教員を賞賛せざるをえないのだ。

あれだけの時間と労力をかければ、万全の授業準備ができるはずだ。あそこまでの集中力を発揮すれば、子どもたちのことももっと深く理解できるだろう。だが、それぞれの教室で行なわれる授業は子どもたち以外の視線には晒されない。一方、卒業式のような一大行事は、保護者も含めた衆人環視となる。

だから担当者にしてみると、「ここで手を抜くと大変なことになる」という心理になるのだろう。要するに、子どもたちの成長のために費やされるべきリソースが、学校と教員の評判を維持するために使われてしまっているのだ。現在の異常とも思える卒業式へのこだわりは、私には本末転倒としか思えない。

(注記のない写真:sachinyan / PIXTA)