「大学発スタートアップ企業数」、私立大の首位は慶応大学

産業競争力強化法が施行された2014年以降、大学発スタートアップの数は7年連続で増加している。経済産業省の「令和3年度産業技術調査(大学発ベンチャー実態等調査)」によると、21年度の大学発ベンチャー数は3306社となり、企業数および増加数は過去最多となった。

22年3月に経団連が公表した提言「スタートアップ躍進ビジョン」では、27年に起こすべき変化の1つに「大学を核としたスタートアップエコシステム」が盛り込まれた。さらに同年11月には、政府が「スタートアップ育成5か年計画」を発表、27年度にスタートアップへの投資額を10兆円規模にすることや、スタートアップ10万社創出などを目標に掲げている。

こうした潮流の中、ディープテックを活用する大学発スタートアップへの期待はますます高まりそうだ。その創出を先導する例としては東京大学などの国立大学が思い浮かぶかもしれないが、私立大学も健闘している。前述の経産省の調査によると、21年度に私立大の中で最もスタートアップ企業数が多かったのが、175社の慶応大学だ。全体の順位としては5位だが、前年度の90社から85社増え、増加数では1位となった。

慶応大学は、私立の中でもいち早く、2015年に「慶応イノベーション・イニシアティブ」(以下、KII)という大学ベンチャーキャピタル(以下、VC)を設立し、スタートアップ創出に力を入れてきた。大学VCとは、主に大学の研究成果の社会実装を目指すスタートアップに対して投資や支援を行う投資会社のこと。KIIは株式会社として設立され、資本金は1億円。大学傘下の慶応学術事業会が8割、国内証券最大手の野村ホールディングスが2割ほど株主として出資している。

設立直後の16年に立ち上げた1号ファンドでは45億円、20年の2号ファンドでは103億円を集め、これまで合計約150億円、45社のスタートアップ企業に投資。うちクリングルファーマ、坪田ラボ、Institution for a Global Societyの3社が東証グロース市場に上場を果たしている。

上場を果たした坪田ラボは、近視、ドライアイ、老眼のイノベーションに取り組む慶応発スタートアップ
(写真:坪田ラボHPより)

「慶応イノベーション・イニシアティブ」のミッションとは?

そんな同社の代表取締役社長と慶応義塾常任理事を務めるのが、山岸広太郎氏だ。国内ソーシャルゲーム大手のグリー元副社長で、まさにスタートアップ起業家としてキャリアを形成してきた人物である。慶応大学経済学部卒業後、出版社の日経BPやウェブメディア「CNET Japan」の初代編集長を経て、04年にグリーを共同創業。同社副社長として事業部門などを10年以上統括し、東証1部(現・東証プライム)上場まで導いた経歴を持つ。

山岸広太郎(やまぎし・こうたろう)
慶応義塾 常任理事(財務、募金、起業家教育・支援担当を兼務)
慶応大学経済学部卒業後、日経BPに入社。その後、米CNETの日本法人設立に参加し「CNET Japan」の初代編集長を務める。2004年にグリーを共同創業して副社長に就任、現在は非常勤の取締役。15年に慶応イノベーション・イニシアティブを設立し、代表取締役社長に就任。21年より現職。日本ベンチャーキャピタル協会にて理事および産学連携部会長も務める

こうした実績や、寄付者として慶応大学のITやバイオ分野の研究助成に協力してきたつながりなどから、VC設立の相談を受けるようになり、KIIの責任者として白羽の矢が立ったという。KIIの役割について、山岸氏はこう語る。

「KIIのミッションは、学内の研究成果を社会実装すること。主に学内の研究成果から事業の種を見つけて精査を行い、資金を投じ、事業化への道をサポートしています。慶応には、10学部、14研究科、30研究所・センターがありますが、その中でも慶応の強みが生きて投資リターンが得やすい、IT融合領域と医療・健康分野が主な投資分野となっています。起業家やチームの状態、収益を上げて社会的課題を解決できるのか、時流と合っているか、株主の状況などを重視して投資判断を行っています」

投資先企業の経営に関与し、助言などを行うキャピタリストは山岸氏を含め7名いるが、全員が慶応大学出身者というわけではない。さまざまな見地からアプローチできるよう、さまざまなバックグラウンドを持った人材を集めたという。

「1社に対する投資額は5000万~3億円程度。1号ファンドは学内のスタートアップを中心に投資してきましたが、2号ファンドでは学外のスタートアップにも投資しました。現在、3号ファンドも構築中で、資金規模は150億円を予定しています」と、山岸氏は説明する。

経営プロ人材の確保のため「副業・兼業の客員起業家」を公募

こうした中、2021年11月、慶応大学は学内のイノベーション推進本部の中に、新たにスタートアップ部門を立ち上げた。これまでスタートアップを支援するハブがなく、改めて担当者を配置した格好だ。

「起業家教育情報の全学共有なども行いますが、この部門の一丁目一番地はやはり大学の研究成果を社会実装することにあります。これまで大学では教育と研究に重きが置かれてきましたが、研究成果の社会実装を通して社会貢献するという目的が加わったといえます。現在、伊藤公平塾長の下、私たちは社会の先導者を育成する大学を目指しており、グローバル化や研究力を高めると同時に、スタートアップについてもいっそう注力していこうと、それに特化した部門を新設したのです」

さらに、新たな動きも示している。22年12月に、転職サイトの運営や人材サービスを展開するビズリーチと連携協定を締結し、慶応発のスタートアップに対し、経営のプロ人材をマッチングさせる取り組みをスタートさせたのだ。

これまで「研究成果のシーズと研究者だけでは、スタートアップはなかなか回らない」という声が多かったと山岸氏は明かす。

「慶応出身者からなる『三田会』があるので、経営のプロ人材を探すのは簡単だと思われるかもしれませんが、約40万人もの卒業生から人材を選ぶ仕組みは三田会にはありません。これまでは、研究者に近い人材を連れてくるしかなかった。もちろんそれがヒットする場合もありますが、サイエンスを中心に研究成果も世界的なレベルに達する中、それに見合うベストな経営人材を選ぶことが大きな課題となっていたのです」

そこで今回の連携では「慶応版 EIR(客員起業家)モデル」と称し、研究者に伴走して起業をリードする副業・兼業の客員起業家を、ビズリーチを通じてマッチングすることにしたのだ。

慶応大学では以前にも、塾長室で経営企画を担う人材とイノベーション推進本部の人材を、ビズリーチを通じて公募したことがあるが、いずれも700人超の応募があった。

「ビズリーチも、1つの職種にこれほどの応募があるのはまれなので驚いたといいます。応募者から『副業ならやりたい』『こういう案件はもっとないのか』といった声があったことも踏まえ、今回の客員起業家の募集につながりました」と、山岸氏は言う。

第1弾として22年12月、理工学部物理情報工学科教授の牧英之氏が客員起業家を公募。「ナノカーボンを用いた新しい集積光デバイス」の世界初の実用化を目指すという、かなり専門的な分野の事業化だが、約190名に上る応募があった。応募者の年齢は、20~60代後半までと幅広く、40代以下の若手・中堅層と50代以上のベテラン層が半々。また、業種・職種も、事業会社、コンサルティングファーム、ベンチャー企業、経営者、個人事業主などさまざまだったという。

客員起業家の第1弾公募を行った慶応大学理工学部物理情報工学科教授の牧英之氏
(写真:牧研究室紹介動画より)

「4月までには採用を決定する予定です。採用された方には、まず副業・兼業で関わっていただきますが、事業化が見込めれば、将来的にはフルタイムの専業に切り替えて従事していただきたいと考えています。また、時期は決まっていませんが、第2弾公募も検討しているところです」

慶応大学は、26年までに慶応発のスタートアップ企業を300社創出することを目指している。足元では、税理士や公認会計士といった士業が集まる複数の三田会と連携し、慶応大学関連スタートアップに対して支援プログラムや専門家相談を提供する計画のほか、アクセラレータープログラムの実施、競争力の源泉となる知財戦略などについて検討を進めているという。

山岸氏は、今後の展望と課題についてこう語る。

「大学は合議制で権限も分散されているため、企業のようなマネジメントや変革をしようと思うと困難が伴います。そのため大学の総体としての意思をどうつくっていくのかは、課題です。また、正直なところ、これまでは大学とVCがうまく接続できなかった部分もありましたが、VC代表 兼 常任理事という立場を生かして大学とVCを一体的に運営し、研究シーズの事業化に対して切れ目のないサポートを行っていきたい。慶応の既存のスタートアップは広義で言えばウェルビーイング。今後はさらに、多様な社会課題を解決できるディープテックスタートアップをたくさん輩出したいと思っています」

(文:國貞文隆、注記のない写真:慶応義塾広報室提供)