「甲子園出場」を勝ち取った、監督の教え

ボーク重子(以下、重子):改革はボトムアップでも可能ですが、ものすごく時間がかかります。でもトップダウンならあっという間に変われる。今回は「トップが変われば大きく変わる」を高校野球の世界で実践した元磐城高等学校野球部監督で現・福島県高等学校野球連盟理事長の木村保さんと、その教えの下、甲子園出場を勝ち取った当時の野球部主将、現在は法政大学野球部に在籍する岩間涼星くんにお話を伺います。木村さん、岩間くん、今日はよろしくお願いします。

木村保(きむら・たもつ)
福島県高等学校野球連盟理事長
元磐城高等学校野球部監督
(写真:東洋経済education×ICT)

木村保・元監督(以下、木村):はい、よろしくお願いします。現在、福島県高等学校野球連盟の理事長をしております木村保と申します。3年前まで、福島県立磐城高等学校(以下、磐城高校)野球部の監督をさせていただいておりました。自分がいろいろ長年やってきた中でのお話をできればと思い、本日は参加させていただきました。よろしくお願い致します。

岩間涼星くん(以下、岩間):おはようございます! 現在、法政大学で野球をやらせてもらっています、2年の岩間涼星と申します! 自分は、(木村)保先生が磐城高校の監督だったときに野球部で選手の一員としてプレーさせていただきました。自分たちの代は、 甲子園出場を決めたものの新型コロナウイルスの影響によって甲子園の大会そのものがなくなってしまいました。しかし、ほんとに多くの方の粋な計らいによって、「2020年甲子園高校野球交流試合」として、1試合だけだったのですが、甲子園で試合をさせてもらうことができました。今は、その経験を将来に生かして、教員という形で野球の魅力を伝えるという夢に向かって活動しています。よろしくお願いします。

ボーク重子(ぼーく・しげこ)
ICF認定ライフコーチ。Shigeko Bork BYBS Coaching LLC代表
(写真:東洋経済education×ICT)

重子:19歳なのに、しっかりしていてすばらしい! 冒頭から非認知能力あふれる岩間くんの発言で、「保監督は、いったい何を改革したの?」と興味津々です! 保監督は、磐城高校を含め福島県内の数々の高校で野球部の監督を務めてこられました。日本では、先生が授業以外に携わる仕事がものすごく多い印象です。部活の顧問もその1つだと思いますが、保監督も先生になったら、野球部に顧問として行かされたんですか?

木村:いえ、私の場合は、最初から高校野球の指導者という目標を掲げて教員の道を目指していたのです。実は私も高校時代、磐城高校で野球をやっておりまして、その中で挫折もあり、最後までやりきれなかったという思いもあったので、今度は指導者として、聖地である甲子園を目指してやっていきたいと思っていました。

重子:普通とは真逆の入り口だったのですね。それでどんな監督だったのですか?

木村:最初の頃は、やはりどうしても「勝ちたい、勝たせたい」という気持ちが働いて、子どもたちにいろいろ詰め込んでしまった部分もありました。若いうちは自分主導で「自分があれしたい、ああやりたい」っていうのが盛りだくさんにあったんですね。

重子:「勝ちたい、勝たせてあげたい。そのためには、子どもたちよりは自分のほうが知ってるから」ってプログラムを作っちゃったり? 「子どもたちは俺についてこい」みたいな感じだったのかしら? そうやってみて、どうでした?

木村:やはり、若いうちは自分主導で子どもたちに言い聞かせたり、気持ちを伝えるという部分が大きくなっていました。また、子どもたちは学生なので勉強や学校生活と、大好きな野球という両輪をうまく組み合わせなきゃいけない。そのバランスに関して、自分の中に葛藤もありました。ただ、子どもたちとの関わりの中で、最初の目標であった「甲子園に行く」ということから、「子どもたちがどういう大人になるのか、なってほしいのか」というところに意識が向き始めたんです。そしたら「いいオヤジになってもらいたいな」、そう思った。そういう人間的な成長の部分を、大好きな野球を通してどうやってなしえていくのか、という方向に意識が変わっていったことで、「子どもたちの心を動かす、心を鍛える」ということを大事にするようになりました。

重子:でも高校野球って、日本では学生の試合の中でいちばん注目を受けるものと言っても過言ではないですよね。やっぱり勝つことで、学校の名が知れ渡ったり、評判にも直結する。だから「いいオヤジになる」という未来よりは、なんとしても「試合に勝つ!」っていうことにフォーカスしてしまいそうだと思うのですが、そのあたりはどうですか?

分岐点となった、東日本大震災と子どもたち

木村:それには、きっかけがありました。私自身も、子どもたちも含めて、分岐点となったのは東日本大震災です。当時私は、福島県立須賀川高等学校に着任して6年目で、野球部の顧問を務めていたのですが、地震から30日ぐらいは学校生活も部活もまったくできませんでした。これからどうしようかなと考えていたとき、近所の方から連絡をもらって、当時の野球部の子どもたちが、地域のためにボランティア活動を始めていたことを知ったのです。大人や誰かに言われたからではなく、子どもたちが個人個人で自主的に始めた活動でした。それを聞いたときに、子どもたちが自ら成長していたことを感じました。

ボランティア精神は、磐城高校野球部にも受け継がれた。2019年、台風19号で被災した際、被害を受けた地域の人たちのがれき撤去のボランティアをする磐城高校野球部の部員たち

重子:それが「生徒たちは、こちらからあれこれ言わなくても、自然に学んでいくんだ、成長できるんだ」と気づいたタイミングだったのですね。それで監督としてのあり方を変えたらノーシードで、夏の甲子園出場をかけた選手権福島大会で決勝まで行くという快挙を成し遂げた。そうした新しい子どもたちへの向き合い方をもって、岩間くんがいる磐城高校に着任されます。

木村:はい、そうですね。2014年に磐城高校に着任しました。それから4年後が、岩間がいた代ですね。

高橋真由(以下、高橋):岩間くんは、小学生からリトルリーグなど、いろいろな場所で野球を経験されていたと思うのですが、保監督のようなやり方で指導をしてもらうのは、高校で初めてだったのではないでしょうか? 今までの監督は、試合や練習のメニューを、ガチガチに考えて指導するような監督が多かったのではと推察するのですが、そのあたりはどうですか?

練習中の1コマ。主将の岩間くんをねぎらう、保監督
岩間涼星(いわま・りょうせい)
法政大学野球部
元磐城高等学校野球部主将
(写真:東洋経済education×ICT)

岩間:そうですね、 自分が中学生の頃までは、本当に監督さんに言われたことをすべて1から10までどう完璧にこなすかを考えてやっていたところがありました。そうすると、大好きな野球が、やらされている野球になってしまうんですね。試合中や練習中も監督の顔色をうかがってしまうという感じで。それが、いざ高校で保先生と出会ったら、とにかく生徒たちに任せてくれる。そのやり方には、驚きが大きかったです。それまでは、自分自身も監督さんに言われたことを実践してやるというのが、セオリーだと思っていたので。練習メニューはもちろん、試合中も監督の指示はなく、キャプテンが中心になってミーティングをしながら進めていく。そういう野球のやり方をしていく中で、本当に自分たちが自立していかないと勝てないなと感じるようになりました。

木村:最高ですね、その言葉がすごく心に染みますね。そう思ってくれることが狙いでしたから。磐城高校というのは進学校で、もともと優秀な子どもたちばかりなんです。優等生なので言われたことは完璧にできる。ペーパーテストがあったら絶対○が欲しい子どもたちなんです。「絶対×なんか、俺たちもらわないよ」って、そういう。そして、そのためにすごく頑張るんですよ。復習なんかもすごい。ただ、同時に「結果は出しても指示待ち」になっている部分も多い、それではいけないなと感じる部分もあって。この子たちの場合は、やっぱり社会に出て行ってリーダーシップを取ってほしい人材なんですよね。なので、もうちょっとこう、ハードルを上げようかなと。そのために子どもたちには、「ほんとにどうぞ主体的にやってください」と伝えて、任せて。ただ「何やっているかだけは、教えてくれよ、共有してくれよ」という形を取りました。

重子:優等生で「結果は出すけど指示待ち人間」て、なんか悲しくない? でもそうやって、やり方を変えたことで、生徒はもちろん、親や周囲から反発や戸惑いの声もあったんじゃないですか?

木村:そうですね。やっぱり理解してもらうまでには、時間もかかりました。もともと伝統校でもあり「結果を出してほしい、甲子園に行ってほしい」という、先輩たちのとても大きな期待もありますので。毎年毎年勝負をしないといけないところもあって、お試しなんかできないんですね。でも少しずつ、子どもたち一人ひとりでやっていくというのを、段階を見て進めていった感じですね。

重子:ちなみに、キャプテンを選ぶときにも生徒が自主的に推薦で選ぶ形なのですか?

木村:そうです。私はキャプテンの選定にも全然関わらないようにして、全部子どもたちに自主的に決めさせました。岩間の代も、キャプテンが岩間に決定するまで、随分長くミーティングをやっていましたね。

重子:だけど、実はいちばん難しい作業ですよね、口を出さないで、ただ見守るっていうのは。それは、本来監督ができること、やってきたことを1つずつ生徒たちに明け渡していくっていう。子育てもそう。親がやっていたことを少しずつ「もうできるでしょう、できるよね」って子どもに明け渡していく。それがさ、見守るっていうことですよね。

(左上)甲子園出場を決めた時の1コマ(右)「2020年甲子園高校野球交流試合」でノックをする木村氏(左下)練習中にミーティングする様子

大切なのは「ビジョンの共有」と「ディスカッション」

高橋:そのように改革されていく中で、生徒が自分達で決めたやり方が、先生の理想とは違っていたり、それはちょっと違うよ、遠回りだよとアドバイスをしたくなるような事はありましたか?

木村:そこは、「何のためにこれをやるのか」っていうところの共有をつねにしていたので、大丈夫でした。キャプテンや、女子マネジャーと、毎日昼休みに会って、会話のキャッチボールをしてたんですね。その中で、今何をしようとしているのかを共有してもらう。共有してもらう中でも、ダメだとは言わなかったですね、これはどうなの?って、持ち帰らせたり、考えさせたり、とかはあったけど。それは、意見交換ですよね。

高橋:つねにビジョンの共有はあったうえで、指示をするのではなくて話し合う。それってディスカッションの理想的な形ですね。

重子:そうね。いちばんよい方法を見つけるために、ディスカッションがあるわけじゃない? こういうふうに言ったら、そうなの、それどうかなぁ?って、どんどん会話を重ねるうちに、いちばんよい方法が見つかるっていう。教育でも、よいディスカッションのやり方を学ぼうって言われているけど、私たちは、はっきり言って学校でディスカッションの訓練を受けていないのよね。「命令、指示、トップダウン」のコミュニケーションしか知らなくて。でも、保監督のところは、お互いの存在が横に並んでいて、トップダウンじゃなくて、保監督は、実は野球部員とディスカッションをやってたんですね。同じ目線で横に並ぶのはディスカッションの必須条件よね。

木村:そうですね……!

高橋:実力がもともとあったところに、主体的に行動する力や、やり抜く力、協働力、失敗をおそれないレジリエンスといった非認知能力を身に付けられたら、無敵ですね……。そんな岩間くんはいま指導者への道を目指されていますね。

岩間:はい。今まで、こういう多くのことを経験させてもらって、やっぱりこの経験を生かしたいなと思っています。教員という形で野球の魅力だったり、子どもたちに、こういう困難を乗り越えることの大切さだったり、いろいろ教えられればと思っています。甲子園での試合が終わった時に、保先生から指導者として戻ってきてほしいという言葉をかけていただいて。漠然としていた目標が、明確に絶対なろうという目標になりました。それは揺らぐことはありません。

高橋:すてきですね。先生、うれしいですね。

*ボーク重子 取材後の感想*
必要なことは、改革しようと決意する「勇気」ではなく、「そもそもどうして子どもと関わる仕事に就いたのか」という根本の問いにあるのだ、と実感しました。またビジョンを共有して、子どもを信じて見守る。それが子どもの「主体性」や「やり抜く力」、そして「協働力」を育むカギだなとも感じました。こうやって、子どもを信じて子どもに任せてみよう、このやり方を試してみよう、と思う監督さんが一人でも多く現れることを願っています。それが岩間くんのように、すばらしい非認知能力を身に付けた次世代を育成していくと確信しています。そしてこれは野球部に限らずあらゆる部活動や、クラス運営、子どもとの関わりの中でも実践することが可能なのではないでしょうか。木村元監督と岩間くんの最高に爽やかな人間力に触れることができたことに感謝しています。

 

ボーク重子(ぼーく・しげこ)
 ICF認定ライフコーチ。Shigeko Bork BYBS Coaching LLC代表。米ワシントンDC在住。30歳の誕生日前に渡英、ロンドンにある美術系大学院サザビーズ・インスティテュート・オブ・アートに入学。現代美術史の修士号を取得後、フランス語の勉強で訪れた南仏の語学学校で、米国人である現在の夫と出会う。1998年渡米し、出産。子育てと並行して自身のキャリアを積み上げ、2004年にアジア現代アート専門ギャラリーをオープン。2006年、ワシントニアン誌上でオバマ前大統領(当時は上院議員)とともに、「ワシントンの美しい25人」の一人として紹介される。また、一人娘であるスカイは2017年「全米最優秀女子高生」コンクールで優勝し、多くのメディアで取り上げられた。現在は、全米・日本各地で“子育て・キャリア構築”“ワーク・ライフ・バランス”について、コーチングと講演会を開催している。著書に『世界最高の子育て』(ダイヤモンド社)、『「非認知能力」の育て方』(小学館)、『しなさいと言わない子育て』(サンマーク出版)など
(写真:尾形文繁)

(企画・編集:高橋真由、注記のない写真:木村氏提供)