――コロナ禍において、英オックスフォード大学ではどのような対策が取られていたのでしょうか。

英国では2020年から21年にかけて断続的にロックダウンが行われ、政府の要請により、大学でもリモートでのミーティングや授業への対応を余儀なくされました。授業では、学生が同じ時間に参加できるとは限らないということを考慮し、当初学部では自分の授業を録画してアップし、それを学生が好きな時間にダウンロードするという方法からスタートしました。

ただ、オックスフォードは日本の大学とは異なり、ディスカッションが中心の授業となります。そこで学生には録画授業の視聴時間を提示し、その後に行われるQ&Aセッションにできる限り参加するよう促しました。一方、大学院では個別指導が中心であり、リモートによる問題が生じることはほとんどありませんでした。

現在、英オックスフォード大学では授業もノーマルな状態に戻っている

コロナ対策の規制が緩和されるにつれて、大学でも対面授業が推奨されるようになりました。その際、学生や教員に対して週2~3回の抗原検査を徹底させたほか、少人数でも広い教室を使うなどの対策が取られました。現在はマスクなしでもOKで、授業もノーマルな状態に戻っています。

――日本の大学のコロナ禍対応については、どう見られていましたか。

英国とは異なり、日本では大学ごとに個別の対応が求められて大変だったと思います。私はサバティカル(長期休暇)で日本に帰国した際、すぐに隔離されました。英国の状況から見れば、日本は感染者がずいぶん少ない。にもかかわらず、なぜここまで入国管理が厳格化されているのか。そこに科学的な検証は本当になされているのか。そんな疑問を持ちましたね。

予測困難な事態を「想定外」で処理してきた日本

――今、日本の教育では予測困難な時代に対応できる資質・能力の育成を掲げ、主体的・対話的で深い学びの実現を目指しています。まさに新型コロナの感染拡大は、予測困難な時代の象徴といえます。

予測困難なことは今に始まったわけではありません。私たちが生きている社会は、つねに予測困難です。誰がバブル経済と、その崩壊を予測できたのか。あるいは、誰が東日本大震災のような甚大な被害を予測できたのか。そして日本は、そんな予測困難な事態が起こるたびに「想定外」で処理してきました。

その対応の仕方にどのような問題点があったのか。どんな判断が必要だったのか。さかのぼって検証しないと、予測困難な事態にどういう学びが必要なのかという問いに答えられません。日本は検証も、そこでの課題を理解することも不十分であるように思えます。

現在もコロナ禍は進行中で、今後を予測することは困難です。とくに現在進行中の問題に対しては、確定的な答えは言えません。そんなときは抽象的な話よりも、むしろ個別の問題に対して、主体的に考えることが大切になります。科学的な知識や過去に起こっていることから見極めるなど、持っている知識を総動員して使いこなすしかありません。

例えば、日本では少子化について、ずっと以前から問題だと指摘されてきました。少子化で日本はどうなるのか。その答えは、ある程度、予測可能であり、何十年も議論をしてきました。しかし日本は、こうした予測できる事態にも対応できていないわけです。対応策のどこかに欠陥があったのではないか。もっと言えば、「予測に対応する能力が必要」と言っている人たち自身に、その能力がはたして備わっていたのか。疑問だと言わざるをえません。

帰納的な考え方ができない「エセ演繹型思考」の問題点

――予測可能な事態にも対応できない原因は、どこにあるとお考えでしょうか。

日本は、その知識を生み出した社会の文脈を離れて、いつも抽象的な議論に終始しがちです。私はそれを「エセ演繹(えんえき)型思考」と名付けているのですが、日本は近代以降、つねに海外から新たな知識を受け入れてきたために、最初に知識を取り入れるときに、その知識を生み出した社会の文脈を離れて、抽象的なものとして取り入れ、それを演繹的に理解することをやってきました。そのため、日本はどうしても演繹法の考え方をしてしまいがちです。

しかし、現実はどうなのか。過去はどうであったのか。そのときどんな対応ができたのか。現実的な側面から、私たちはどんな能力を発揮してきたのか。そうやって帰納的に考えることが必要です。

現実的に何が問題なのかを明らかにしておかないと、演繹的に考えても何も解決策は生まれません。コロナ禍の問題も同様です。濃厚接触者の定義もあいまいですし、本当に科学的なのかどうか過去にさかのぼって検証することもほとんどない。反省も検証もしているようで、していない。そこが大きな問題なのです。

「演繹型思考」と「帰納型思考」の違い
・演繹型思考:抽象的な理想や理論、概念からの推論
・帰納型思考:事実の積み上げによる判断

――日本人は帰納的な思考をすることが苦手なのでしょうか。

それは日本の教育が育てようとする個々の人間の資質や能力の問題なのか。あるいは、必要な資質や能力を持っている人間がいたとしても、それが発揮できない組織や制度の問題なのか。そこを区別しなければ、いくら教育の問題として議論しようとしても無理があります。

しかし、そう言うとどうしてもけむたがられてしまう。日本では異質の意見を持つことは、とても勇気のいることです。私は日本では組織のあり方を変えない限り、いくら必要な資質や能力を持つ人間がいたとしても、それを発揮できないと考えています。

まさに、そうした組織の問題を帰納的に考え、どこに問題があるのか。実態から掘り起こしていかない限り、解決できません。得てして、教育の論議は、地に足の着かない空中戦になりがちです。もし資質や能力を持っている人がいても、それを受け入れ、そうした資質や能力を発揮する機会の豊富な組織や風土がなければ何も変わっていかない。学校だけでは解決できない問題なのです。

今、日本では演繹型思考がもっと単純化して、白黒の議論になっているような気がします。コロナ禍によって、異質を排除する議論が強くなっているようであり、むしろ学生は自分の意見を表明しないほうがいいと考えてしまう。それは今の教育で必要とされる主体的・対話的で深い学びとはまったく逆の方向に向かっているように見えます。

――帰納的に考えるためには、どうすればいいのでしょうか。

帰納的に考える際、よい教材となるものは過去です。過去は予測困難な時代を通り抜けた結果です。私たちが現実をどう観察し、過去をどのように理解していくのかが重要になります。

そのための方法論を学ぶという点において、過去の事例を学んだり、文学やノンフィクションを追体験的に読んだりすることも有効かもしれません。教える側も、そういう狙いや意図を持って学生に読ませなければなりませんが、そうなっていないと思っています。

日本の大学は生き残ることができるのか

――こうした中で“知の生産”を担う大学は、これからどのように変わっていくべきでしょうか。

日本の大学では、大教室で多数の学生に向けて授業をするスタイルが中心となっています。それは歴史的に海外から知識を輸入してきたこと、そしてコストをかけずに学生の数を増やすということをやってきたからです。日本の大学生のおよそ4分の3は私立大学に在籍しています。しかし、財政基盤の強い大学は限られており、授業料収入に頼らざるをえない。コストパフォーマンスを高めるためには、どうしても大人数の講義型の授業が1つの合理的な解決策となってしまうのです。

日本の大学生は週平均12~13コマの授業を受け、その半分以上が講義型となっており、大学・学部によっては卒業論文を必要としないところも増えています。そうすると、知識を受容するという点では幅広く効率的な授業が行われますが、反面、学習に対する負荷はどうしても小さくならざるをえなくなります。これらを変えようとしても、今のカリキュラムや教員組織の構造、財政的な基盤の問題などが複雑に絡み合って、すぐに変革することは難しくなります。

日本の大学では大人数の講義型の授業が中心

――海外では、どのような授業を行っているのでしょうか。

米国や英国の大学の授業では、学生にかなりの分量の文献を読ませ、書かせて、議論させることを行っています。そこが日本の大学は非常に弱いと感じています。問題に対処するための方法論も学んでいないため、帰納だ、演繹だ、ということが何であるのかも身近に感じることができないし、理解できないのです。

大学でしかできない“知の生産”を追体験するには、知というものがどうやって出来上がっていくのかを読みこなしていかないといけません。教授から話を聞いたというだけでは追体験にはならない。学生自身が自分で考え、再現しなければ、知の生産には到達できないのです。その意味で、読み、書き、議論することは米国や英国の有力大学の授業の基本だと言えます。それが日本の有力大学では、その必要性がわかっていてもなかなかできないのです。

確かに日本の大学でも新たな取り組みは行われていますが、それでも米国と英国の大学に比べて、学習の負荷が少ない。ポテンシャルのある学生たちの能力をさらに伸ばすことができていません。

――大学改革が叫ばれて久しいですが、なぜ日本の大学はなかなか変革できないのでしょうか。

日本の大学は、米国や英国の大学に対して後発となります。もし本当に変革しようと思えば、桁違いのコストがかかるでしょう。今の状態のままで新しい施策を行っても、形骸化するだけです。実際、大学の先生たちの多くが“改革疲れ”というような状態に陥っています。財政面の充実と時間的余裕、人的資源がなければどんな理想を掲げても絵に描いた餅になるだけです。教育の現場では、求められるものがどんどん多くなっているにもかかわらず、それに見合う資源が投入されていない。その中で改革論議だけが先行しているのです。

――コロナ禍で、日本の大学でもリモート授業が浸透しましたが、大学改革を促すものになるでしょうか。

オックスフォードのように英語で授業を行っている海外の大学では、大きなメリットが生まれています。今までは旅費を出して、わざわざ講義に来てもらっていた先生たちがリモートで授業や講演ができるようになり、北米や欧州、日本やアジアからも参加できるようになりました。私にしても日本の大学から講義を頼まれれば、リモートで行えるようになったことは大きいと思います。日本の大学でもやろうと思えば、海外の人的資源を活用することができるはずです。留学生についても同様にリモートの効果は少なくないでしょう。

ただ、リモート授業は先ほど言った大教室でのレクチャーと同じことになってしまう可能性があります。リモートでも議論するためには、やはり人数的な制約が出てしまう。そこにはカリキュラムの問題も横たわっているのです。

――同時にカリキュラムも変えていかなければならないわけですね。

これは本当に難しいことです。学生に学習の負荷をより与えていくには週の授業のコマ数を減らすしかありません。例えば、1つの授業を複数回に分けてやることも1つでしょう。そして、先生たちがどれくらい授業の負担をマネジメントできるのか。これは教員組織の問題とも直結します。もしカリキュラムを本当に変えていくとすれば、そのポイントとなるのは、非常勤講師を巻き込めるかどうかにあります。

財政的に厳しい大学が多い中、非常勤講師に授業を依存する大学が増加していますが、今の大学の規模で少人数教育を推進するには、非常勤講師をはじめとして先生の数を増やすしかありません。大学院生にティーチングアシスタントを担当させることもできますが、大学院生を擁する大学が限られている現状では、全体的な解決策にはなりえません。今からすぐに米国型や英国型の大学に変わろうとしても、土壌が違うわけで、後発である日本の大学では非常に難しい側面があるのです。

――日本の大学は、生き残ることができるでしょうか。

苅谷剛彦(かりや・たけひこ)
オックスフォード大学 教授
1955年生まれ。米ノースウェスタン大学大学院博士課程修了、博士(社会学)。東京大学大学院教育学研究科助教授、同教授を経て2008年から現職。著書に『階層化日本と教育危機』『増補 教育の世紀:大衆教育社会の源流』『追いついた近代 消えた近代』など
(撮影:尾形文繁)

今後少子化がますます進行していく中で、日本の大学はコストをかけずに変革しなければならない状況にあります。教員にしてもコアの部分は常勤講師だとしても、それ以外は非常勤講師に頼らざるをえない。また、数年前から文部科学省が「スーパーグローバル大学創成支援事業」を行っていますが、現状成果が出ているとは言いがたいですし、なぜ成果が出ないのかも検証されていません。

支援事業を始めるときには、英語授業、留学生、外国人教員の充実を問うていましたが、実際には今の日本の大学の財政力で世界的なトップ大学からトップ人材を招聘することなんてできませんし、留学生もトップクラスは日本にはやってこないのです。そうすると日本の大学の強みとは何かということを、もう一度足元から見直す必要があるのです。

――日本の強みとは何でしょうか。

日本は非常にユニークな歴史を持っています。よく言われるように非西洋圏で最初に近代化した国ですが、第2次世界大戦で敗退し、完全に国を滅ぼした経験を持っています。1回目の近代化の失敗が被爆国という末路を招いたのです。そして、戦後は米国の占領の下、2回目の近代化を行いました。それは平和で民主化な国家を目指すものでしたが、結果、科学技術立国を目指し、ものづくりを通じて経済成長を手に入れました。

80年代まで日本では欧米に比べ雇用者の高学歴化が一足早く進んだ一方、労働コストは安く、品質の高い製品を安く売ることができました。日本人がグローバル化していなくても、高品質低価格の製品によってグローバル競争に勝つことができたのです。当時、日本人は海外から「エコノミックアニマル」と言われましたが、それは日本人のセールス力が強かったわけでは必ずしもなく、製品力が強かったからなのです。

しかし、その後、バブル崩壊を迎え、失われた30年に突入。あげく海外からは長期低迷することを「ジャパナイゼーション(日本化)」と言われるようになりました。しかも、その間、私たちは大地震や災害をはじめとして、多くの困難な災厄を経験しました。これら日本の歴史は見方を変えれば、日本は近代社会の問題が詰まった縮図の国だとも言えます。しかも日本人は、そうした経験を丁寧に書き残してきました。

私は日本語で書かれた経験の集積は“日本の知”だと思っています。世界の国々がこれからの行く末を考えるうえで、日本の知は人類の宝庫になりうるのです。私たちが悩み切った人たちから個人的に学びを得るのと同じように、世界の人たちにとっても日本の知は学びの宝庫になる。それが日本の強みになると私は考えています。

つまり、日本が世界に発するリソースは、歴史から蓄積された日本の知にあると思うのです。それを足がかりにして日本の個性をアピールするほうが、表層的に授業の英語化を推進するよりも、よほど地に足が着いている。それが帰納法的な考え方にもつながっていくと思っています。

もっと言えば、日本の知を多様な人材によって複数の視点から見ることで、自分たちの姿を捉え直してアピールしていけばいい。今はAIの進展によって自動翻訳機能も高性能化しており、必ずしも日本語だからといって世界にアピールできないわけではありません。日本語で積み上げてきた知識をどのように世界で活用してもらうのか。そこにこそ、日本の大学がやれる余地が大いに残っているのです。

(文:國貞文隆、注記のない写真:Gettyimages)