「生命(いのち)の安全教育」で日本の性教育が変わる?

性交を経験したことのある高校生は男子が13.6%、女子が19.3%。これは日本性教育協会が、ほぼ6年ごとに行っている「青少年の性行動調査」2017年の結果だ。この数字を多いとみるか、少ないとみるか、妥当とみるかは人それぞれだろう。ちなみに、大学生になると経験率は大幅に上昇し、男子は47%、女子は36.7%となっている。

インターネットの普及により、今はあらゆる情報にアクセスできる。性に関する情報もしかりだ。しかし、性に関する情報が多く入ってくる一方で、子どもたちが性に関する正しい知識を身に付けているとは言えない現状がある。

また、子どもが性犯罪や性暴力の当事者になる可能性もある。警察庁「令和2年における少年非行、児童虐待及び子供の性被害の状況」によると、20年の児童買春や淫行等の検挙数は2409件となっているほか、性的虐待の検挙数は299件となっている。

こうした中、17年に刑法の一部が改正された。これまで女性に限定されていた被害者の性別が問われなくなったほか、非親告罪化(被害者の告訴がなくても罪に問われる)、監護者わいせつ罪および監護者性交等罪も加わった。また、内閣府男女共同参画局は20年度から22年度までの3年間を性犯罪・性暴力対策の集中強化期間とし、被害者支援や教育・啓発活動を進めている。

この流れを受けて、文部科学省では「生命(いのち)の安全教育」を推進するための教材および指導の手引きを作成。これにより、「日本の性教育が大きく変わる」と話題になった。

ちなみに「生命(いのち)の安全教育」の教材は、自分と他人の身体を大事にすることを目的とし、幼児期/小学校(低・中学年)/小学校(高学年)/中学/高校/高校(卒業直前)・大学・一般と、年代に合わせた6パターンが作成されている。

出所:文科省「生命(いのち)の安全教育教材」幼児期・小学校(一部)

「受精」は教えられても「避妊」は教えられない矛盾

こうした変化を専門家はどう見ているのか。日本の性教育の歴史やジェンダー教育を研究している埼玉大学副学長・教授の田代美江子氏はこう指摘する。

「新しい指導の手引きに性的同意やデートDVなどが取り上げられていることもあって、新しい性教育と報道するメディアも多数ありますが、これは『生命(いのち)の安全教育』であって性教育ではありません。というのも、そもそも文科省は、『生命(いのち)の安全教育』に関して性教育という言葉を使っていないのです」

出所:文科省「生命(いのち)の安全教育教材」高校(一部)

なぜか。その謎を解くカギは、日本の性教育の歴史にあるという。田代教授によると、日本では敗戦後の混乱した社会における性道徳を強調するために、純潔教育が推進された。なおかつその担い手は学校ではなく家庭が想定されてきたのだという。

「99年に『学校における性教育の考え方・進め方』で使用されますが、日本ではずっと性教育に関して、『性に関する指導』という言葉が使われてきました。教育と指導という言葉には大きな違いがあります。つまり、性に関しては指導であって、学校での学びではないということ。04年に中央教育審議会『健やかな体を育む教育の在り方に関する専門部会』では、学校で取り組むべき課題として、食育と性教育について議論がなされました。しかし、学習指導要領では、受精については取り上げても、受精に至る過程は教えないという、いわゆる『はどめ規定』が現在も残っています。これを根拠として『学校で性交については教えてはいけない』と考えている教員や教育関係者も多く、避妊や性感染症について教えづらい状況が今も続いているのです」

リスク脅迫だけでなく幸せになるための教育を

学校における性教育が進まないもう一つの背景として、政治による教育介入があると田代氏は指摘する。03年には都立養護学校で実施していた性教育を不適切だとして都議が批判し、学校や教員に対するバッシングが起こった。裁判では教員側が勝訴したものの、教育現場の萎縮と性教育の後退を招いたとされる。18年にも足立区の中学校で実施された性教育を不適切だと都議が批判する事態が起こった。

「足立区のときは、区の教育委員会がすぐに対応しましたし、私たちも異議を唱えました。また、世論も都議の言動を問題視し、都立養護学校のときのように、教員が処分されるということは起こりませんでした。私は海外の性教育についても調査を行ってきましたが、教育内容に政治的権力が介入しているのは日本くらいです。中国や台湾なども、性教育義務化の法的基盤があります。日本でも、まずは性教育の法的基盤の整備が必要でしょう」

さらに、日本の性教育の課題として、「脅迫の教育になってしまうこと」があるという。

「生命の安全教育に限らず、『情報化社会の新たな問題を考えるための教材』(文科省)などでも、まずリスクを提示し、怖がらせる内容になりがち。もちろんリスクを学ぶことは必要ですが、リスクを学ぶだけでは幸せにはつながりません。友情の延長線上に愛情があり、恋愛がある。そのポジティブな面を教える必要があるのです」

こうした中、現場で奮闘する教員も少しずつ増えているという。田代氏は、「日々生徒と接し、その幸せを願っている現場の先生たちは、性教育が必要だと感じている」と話す。

例えば10代の意図しない妊娠は、高校中退や貧困を招く可能性もある。そうした事態を避けるには、生徒自身が妊娠や避妊、性的同意やジェンダー平等などについて、正しい知識を身に付ける必要がある。田代氏は公立中学校の教員と協働して「性の学習」の実践づくりに取り組んでおり、手応えを感じているという。

「生徒たちは、こちらが思っている以上に先生を信用しているもの。最初はニヤニヤ聞いていた生徒も、先生が当たり前のこととして話すと、性交や避妊、デートDVといったこともまじめに聞くんです。信頼している大人が性についてまじめに語ると生徒はまじめに捉えますし、何かあったときも相談しやすくなります。性教育=性交のことと思い込んでいる大人も多いですが、性教育は科学的な身体の知識を身に付けるだけではなく、ジェンダー教育や人権教育でもあります。こうした包括的な性教育を通して生徒たちは人権意識を持つようになります。人権侵害という言葉が日常的に使われるようになると、生徒同士の関係もよくなりますし、先生も強圧的な指導をしなくなります」

性教育は人としての権利と尊厳の教育だ

こうした包括的な性教育を行ううえで、手がかりとなるのが『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』だ。ユネスコを中心に世界中の性教育専門家によって作られたもので、田代氏もその邦訳に携わっている。

「ガイダンスは人権的アプローチに基づき、ジェンダー平等や多様性を前提として作られています。性の多様性は、家族の多様性や友達の多様性、身体の多様性も取り上げられています。そして、性をポジティブに捉えることは、安全安心で幸せな生き方に直結するのです」

ガイダンスでは包括的セクシュアリティー教育について、科学的に正確な知識を年齢や成長に即したカリキュラムで継続的に学ぶことだとしている。

「学校で性教育をやりたいと思っている先生は実は多いのでは。だからこそ、性教育の教材や研修の提供などを通して、先生を応援していきたいですね。また、私は教育学部で教えていますから、教員を目指す大学生に発信していきたいと思っています」

少しずつではあるものの、「寝た子を起こすな」という風潮から変化しつつある日本の性教育。性について学ぶことは、人としての尊厳や権利について学ぶこと。まずは大人が、「性教育とは、人と人がお互いを尊重し合える関係を築くために必要な知識を教え、共に考える時間」と捉えることで、その可能性は広がるはず。子どもたちにとって本当に必要な性教育とは何か、引き続きさまざまな立場や観点から議論する必要がありそうだ。

田代美江子(たしろ・みえこ)
埼玉大学教育学部教授。埼玉大学副学長(ダイバーシティ推進・キャンパス環境改善担当)。一般社団法人“人間と性”教育研究協議会代表幹事。『季刊セクシュアリティ』編集長。公立中学校をフィールドに『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』を踏まえた「性の学習」の実践づくりに教員と協働して取り組んでいる。性を学ぶセクソロジーや#つながるBOOKなどのサイトも田代氏は推薦する(写真は田代氏提供)

(注記のない写真はiStock)