エストニア視察で感じたICT化の遅れへの危機感

――渋谷区は3年半前に早くも「1人1台端末」を実現し、教育のICT化を積極的に進めてきました。全国的に端末導入が進まなかった時期に、なぜ動き出したのでしょうか。

世界のICT化の潮流に乗り遅れてはならないという意識がありました。2016年策定の区基本構想でも子どもの可能性を最大限に引き出すために先進的教育を追究することを掲げています。これからの時代の子どもたちに生きる力を身に付けてもらい、幸せになっていってもらう教育にはICTが欠かせないと考え、児童・生徒全員にタブレット端末を配付しました。その際、Wi-Fiでは家庭環境による差が生じやすいことに配慮し、いつでもどこでも学習ができるよう、セルラーモデルを採用しました。

しかし、ICT化の必要性を心から実感したのは、区内の神宮前に大使館があるエストニアを17年12月に視察した時からです。電子国家として知られるエストニアは、ほとんどすべての行政手続きが電子化されていて、パスポート発行なども迅速に処理できます。教育現場も見ましたが、中学生が最先端のフィンテックで使われるブロックチェーン技術を使ったプログラミングの話をしている。これからの世界は、こういう子どもたちが社会に出てくるのだと思うと危機感を覚えました。

――日本の教育、行政のICT化はなかなか進んでいません。

渋谷区は2年前の庁舎移転に合わせて、ICT化を一気に進めました。とりわけICT基盤を全面的に刷新し、教育データについても行政データと一緒に活用できるよう、行政基盤と連携できる教育基盤を整備しました。今は将来のスマートシティ化を見据えて取り組みを進める時だと思います。

教育、行政のICT化が進まないのは、自治体の中で知見のある人材が大きく不足していることに加え、個人情報保護などセキュリティーへの不安や懸念が強いことが理由だと思います。ICTを活用するにあたり、セキュリティーとのトレードオフは避けられませんが、それをやらない理由にしてしまったら、世界、世間の流れに取り残されてしまいます。いかに個人情報を守りつつ、ICT化を推進すべきかを考えなければなりません。

渋谷区長 長谷部健(はせべ・けん)
1972年渋谷区神宮前生まれ。博報堂退職後、NPO法人green birdを設立し、まちをきれいにする活動を展開。原宿・表参道から始まり全国60カ所以上でゴミのポイ捨てに関するプロモーション活動を実施。2003年から渋谷区議会議員(3期12年)。15年4⽉から現職(現在2期目)

とくに、安全のために制限を課す場合は注意が必要です。渋谷区には「自分の責任で自由に遊ぶ」公園があります。今や公園では、危険だからという理由でボール遊びも、水遊びも禁止され、何もできない場所になってしまったからですが、「自分の責任で自由に遊ぶ」公園は区内で最も人気のある公園となっています。行政がリスクをおそれ、安易に制限、禁止をすれば、何もできなくなってしまう。不適切な利用などをおそれて、端末を自宅に持ち帰ることを禁止する自治体も多いですが、渋谷区ではセキュリティーの担保や、利用時間の制限をしたうえで、どんどん持ち帰ってもらっています。

使い勝手と安全のバランスに課題、ログを使って端末の利活用を推進

――導入後の3年間で、どんな課題を感じましたか。

最初に導入した端末は、子どもたちが落として壊さないように、不適切なサイトにアクセスしないように、とリスクを重視しすぎた結果、丈夫だけど大きくて重い端末になってしまいました。インターネットの利用もアクセスできるサイトの制限が厳しすぎるなど、使い勝手が悪くなったことも課題でした。しかし、そうした反省や知見を3年にわたって蓄積してきたことは、区にとっても大きな財産となりました。使い勝手について教員から意見をもらえたことで、消極的、懐疑的な先生も含めて区の教育ICT改革への関与や理解を促せた面もありました。

渋谷区は2年前の庁舎移転に合わせて、業務のICT化を一気に進めた

ICT教育の推進における最大の課題は教員のスキル向上でしょう。ICTが苦手で端末操作に戸惑う先生や、教育現場でのICT活用そのものに懐疑的な先生もいます。ある程度は、ICTの利便性を実感してもらうことで、時間が解決してくれますが、優れた活用事例の収集や、研修などを通してノウハウ共有の仕組みを整え、全体の底上げを図ることが重要です。

――教員に端末活用を促す環境をどのように醸成していますか。

渋谷区教育委員会では教育データの収集・活用もしており、例えば、端末の利用ログ(履歴)を把握、分析し、学校とも共有しています。子どもたち全員に配付している以上、学校・学級間で利用状況にあまり大きな差がつかないようにしなければならず、そのデータを基に、教員には、積極的に子どもたちの利用や授業での活用を進めるよう促しています。また利用状況のデータは、保護者も知りたいと思うはずです。それぞれの区立小中学校には、地域住民や保護者が参画するコミュニティ・スクール(学校運営協議会制度)を設置しているので、その中でログを含めたデータを公開すれば、学校側には利用促進に向けたインセンティブになり、地域や保護者には学校のICT教育への関わり方を考えてもらえると期待しています。

――IT企業が集積した「ビットバレー」渋谷には地の利があります。

意外に思われるかもしれませんが、渋谷区は、財政的に決して裕福な自治体ではありません。今後、税収が伸び悩み、財政状況が厳しくなることを想定した区政運営が必要です。その中で、行政サービスを維持・向上させ、地元にプライドや愛着を持てる渋谷であるために民間の力を借りることは、区長に就任して以降、大きなテーマとして掲げています。教育のICT化を進める前提として、地元のIT企業と連携してプログラミング授業への講師派遣など、サポートを仰ぐことは念頭に置いていました。

――20年9月には端末を更新し、新しい教育ICT基盤も稼働しました。

区の職員は、19年の新庁舎移転とICT基盤の刷新を機にSurfaceを使うようになりました。そして、区立小中学校には20年、新たに「Microsoft Surface Go2」を採用しました。ですので、子どもたちは職員より新しい端末を使っています(笑) 。この端末更新、教育基盤の設計、導入には十数億円もの予算を要しました。

ただ、これからの時代の教育環境や多様化した子どもたち、グローバル化・情報化の加速度的な進展などを考えたときに、ICTを活用してすべての子どもたちの可能性やチャンスを最大化させるための取り組みが必要だと考えると、これはコストではなく投資だと考え、決断に迷いはありませんでした。

テクノロジーは進化していきますが、現状で私たちが行き着いたシステムの設計やノウハウをほかの自治体にも採用してもらえば、迅速かつコストを抑えた導入が可能になります。私たちにとっても、渋谷区と同じICT基盤を利用する自治体が増えれば、スケールメリットによるコストダウンを期待できます。そのため、東京都や23区特別区長会でも、渋谷区のノウハウを積極的に提供することを提案しています。このように多くの自治体と一緒に日本の教育のICT化を前に進めていくことができればと考えています。

(撮影:梅谷秀司)

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