「酵素」が今、改めて産業界で期待されている理由
日々使用する衣料用洗剤から、パンやチーズなどの食品、医療機器の洗浄やバイオ燃料の生産まで――。普段意識することはなくても、私たちの生活や産業はさまざまな「酵素」の力によって支えられている。
酵素は、あらゆる生き物の体内でつくられるタンパク質の一種であり、化学反応を効率よく進める「触媒」の働きを持つ。一般的な化学反応は、反応を促すために高温・高圧の環境や強い薬品などが必要になることが多く、多大なエネルギー消費や環境負荷が課題となってきた。
一方、酵素は常温・常圧でも働き、特定の反応だけを効率よく進められる。そのため、エネルギー消費や不要な副生成物を抑えながらものづくりを行うことができる。
この特徴から、洗剤に配合すれば低温でも汚れを分解しやすくなり、食品分野ではおいしさや保存性を向上させ、食品ロスの削減にも貢献する。
酵素の活用は、企業の経営資源にもメリットをもたらす。高温・高圧の環境が不要になることで工場の省エネ化が進み、CO2排出量の削減や燃料コストの抑制ができる。また、強い薬品の使用を抑えることで、有害な廃水や副生成物の発生を抑え、環境へのリスクや対策にかかる費用を減らすことも可能だ。
さらには、農業やバイオ燃料の製造でも、生産性の向上や資源利用の効率化を通じて、原料・エネルギーコストの削減に寄与している。
このように、高温や強い薬品を前提とした従来の手法から、酵素を活用した手法へ転換することは、「環境保護」だけでなく、コスト削減や生産性向上といった「経営効率」にも直結する。この2つの価値を同時に満たす手段として、酵素は産業界から期待を集めているのだ。
酵素の実用化のカギを握る「菌の能力の見極め」
こうした生物由来の技術を使って課題を解決する「バイオソリューション」を世界で展開するのがノボネシスだ。同社は100年以上にわたって培われてきたバイオソリューションの知見と技術を持つ企業同士の統合により、2024年に現在の社名で新たなスタートを切ったグローバル企業であり、140カ国以上で事業を展開している。
そうした中で、同社の日本拠点はユニークな立ち位置にある。長年にわたり多様な菌のデータを蓄積し、外資系企業でありながら、麹菌や納豆菌など日本独自の発酵文化と関わりの深い微生物を対象に、目的の酵素をより多くつくり出せる「生産菌」の開発を行っている。
幅広い用途に適した酵素を実用化するには、開発した菌に酵素をつくらせ、その量や性能を客観的な数値で正確に測定し、生産能力の高い菌を見極める必要がある。
その際の重要な指標となるのが、酵素が反応を進める能力を数値化した「酵素活性」だ。同社では、この酵素活性の分析・評価を非常に重視している。ノボネシスジャパンの研究者である倉方悠馬氏は、こう説明する。
「酵素活性を測ることで、試料の中に目的の酵素がどれだけ生産されたのかを評価しています。産業界で酵素を実用化するためには、安定して生産できることがビジネスや環境への貢献の成否を分けるため、正確な測定が重要です」
研究開発部門 シニアサイエンティスト
倉方 悠馬氏
ノボネシスでは、巨大なタンクを使って菌を培養し、その菌がつくる酵素を製品化している。同じ酵素を生産する菌でも、生産量や生み出された酵素の性能には差があるため、酵素活性を測定して比較し、より優れた菌を選び出している。
酵素の分析では一般的に、温度や酸性度(pH)などの条件を細かく変えながら検証が行われる。それにより、「冷たい水でもよく働くか」「酸に強いか」といった酵素ごとの特性が明らかになり、洗剤や食品など、最終的な製品の使い道を決める重要な手がかりとなるのだ。
「わずかなズレ」が結果を左右する、手作業による分析の限界
酵素の働きを裏付け、開発の方向性を判断するうえで欠かせない酵素活性の測定だが、研究者に大きな負担がかかっていた。酵素の反応は、温度や時間といった条件がわずかに異なるだけでも変化するためだ。
「実験の際は、酵素の作用によって変化させる相手となる物質(基質)と、反応中の酸性度(pH)の変化を抑え、反応に適した環境を保つための液体(緩衝液)を用意し、決められた温度で混ぜ合わせます。一定時間が経過した後、基質がどれくらい変化したかを調べることで、酵素による反応の進み具合を数値で測ります。温度や時間などの条件をそろえ、日を変えて測定しても同じ結果が得られる状態にすることが重要です。しかし、従来の手作業では、それを安定して再現することが難しいという課題がありました」
倉方氏がそう話すように、従来の手作業での分析ではストップウォッチで時間を計りながら、決められたタイミングで試薬を加えて、反応を止めたりしていた。試料が1つであれば対応できても、数が増えるほど、それぞれの反応開始と終了の時間を正確に管理することは難しくなる。さらに、手作業では担当者ごとの手技のばらつきも結果に影響を及ぼしてしまう。
「ストップウォッチがゼロになった瞬間に試薬を入れる人もいれば、ゼロになってから入れ始める人もいます。わずかな違いですが、厳密な測定では、こうしたズレもできる限り排除しなければなりません」
倉方氏が担当する研究開発段階での測定データは、実用化に向けた段階へ進めるかどうかを判断する材料になる。結果に差が出たとき、それが酵素そのものの違いなのか、作業者の操作によるものなのかが曖昧では、正しい意思決定はできない。
個人ごとの手作業への依存は、研究者のリソースを奪うだけでなく、プロジェクト全体のスピードや品質を落とす要因にもなる。昨今の研究開発現場では、作業時間の短縮や実験データの品質、生産性の向上を図るために「自動化」の実現が急務となっている。
そこでノボネシスが導入したのが、サーモフィッシャーサイエンティフィック(以下、サーモフィッシャー)の酵素分析装置「Thermo Scientific™ Gallery™ Plus Enzyme Master」だ。この装置の使用により、分析の各工程を自動化し、試料ごとに作業者が反応時間を管理する負担を減らすことができる。
「Gallery Plus Enzyme Master」は、25~60℃の広い温度範囲において精緻な温度管理ができるうえ、1時間当たり最大350検体の処理能力を持つ。試薬を混ぜて反応させるところから最後の計算まで、セット後の全工程を自動で行い、多数の測定を並行して人の手を介さずに進められる。手作業のズレやミスを排除して正確なデータが得られると同時に、作業の時間短縮によって研究者がより創造的な業務に集中できる環境づくりにも寄与する。
分析の自動化で、研究者がより価値を生む仕事に向き合える
ノボネシスはサーモフィッシャーと協調し、「Gallery Enzyme Master」シリーズのソフトウェアの改良やカスタマイズを重ねてきた。同社がこの装置の導入効果として重視しているのは、一定時間に多くの検体を処理できる「スループット」の向上に加え、「正確性」と「再現性」を確保できる点だ。「いつ誰が測っても同じ結果が得られる」という品質を確保し、国や拠点が違っても同じ条件で測定した結果をそのまま比べられるようになったという。
「当社のグローバルな複数の拠点が連携して、同じ酵素や生産菌を検証しています。しかし、使う装置や測定方法が異なれば、同じ条件で評価することはできません。各拠点に同じ装置を導入し、同じ手順や設定で測定することで、結果を比較しやすくなりました」
この装置では、試薬を加える量や反応時間、温度などの測定条件を登録し、一度確立した測定方法を別の拠点や部門でも再現できる。さらに、サンプルや試薬をバーコードで管理し、測定日時などの履歴も自動で記録するため、測定結果の追跡や信頼性の確認が容易になる。
また、自動化によって、測定結果が担当者の経験や手先の技術に左右されにくくなった。
「以前は、何度測っても同じ結果を出せる人が『実験が上手だ』と評価されていました。しかしこの装置を使えば、誰が操作しても同じ手順で測定できます。担当者が代わっても同じ品質で測定できるので、安心して結果を共有・活用できるようになりました」
研究者の働き方も変わった。測定を始めた後は装置の前に張り付く必要がなくなり、その間に文献を調べたり、次の実験の準備を進めたりと、時間を有効に使えるようになったという。
分析の自動化は、測定結果への信頼を高めるだけでなく、研究者の日々の業務を効率化し、研究を進める時間を生み出している。倉方氏が今後期待するのは、サンプルを装置まで運び、セットする作業など、測定の前準備も含めたさらなる自動化だ。
「手作業が減れば、特定の実験技術だけでなく、データを読み解く力や異なる分野の知識を研究に生かすことへ力を注げます。また、データサイエンスなど、別分野の人材が研究に加わる余地も広がるので、これまでにないイノベーションが期待できます」
こうした研究開発の自動化の推進は、拠点間における統一的な指標の共有や、研究者のより創造性の高い業務への注力を可能にし、結果として酵素開発におけるプロジェクト全体のスピードも向上させる。新しい酵素技術をいち早く世に送り出す「社会実装のスピードアップ」にもつながっていくだろう。
正確なデータを共通言語に世界の拠点が手を取り合い、有望な酵素をより確実に見つけ出す。その実直な積み重ねこそが、酵素の秘められた可能性を引き出し、やがて産業と地球の持続可能性を強固に支える希望のカギとなるはずだ。

