幕末の謎、坂本龍馬の「暗殺」をめぐる3つの"考察" じつは歴史研究者からは見向きもされていない

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江戸に兵を進めた西郷隆盛が勝海舟と直接会談を行ったことで、江戸総攻撃は回避され、江戸無血開城となったことはよく知られています。しかし、その直前まで、西郷は断固として軍事行動を進めようとしていたのです。それは大久保利通に宛てた手紙にはっきりと書いてあります。

このように考えると、坂本龍馬の暗殺を実行したのは薩摩藩である可能性も大いにあるのです。もちろん証拠となる史料はなく、あくまでも状況証拠を検証した結果、推理されるものの範疇にとどまります。

坂本龍馬「当たり屋」説から生じる紀州藩関与説

状況証拠として考えるならば、最近、私がもしかしたらと思うのが、坂本龍馬「当たり屋」説から導き出される、紀州藩関与説です。

坂本龍馬が日本初の貿易商社である「亀山社中」を結成し、その後、新たな組織として「海援隊」を作ったことはよく知られています。この海援隊が操船した蒸気船・いろは丸が、慶応3(1867)年5月26日、瀬戸内海を航海中に紀州藩の軍艦・明光丸と衝突事故を起こし、鞆の浦付近で沈没した事故が起こりました。

このとき、海援隊と紀州藩の間で裁判が行われましたが、坂本龍馬は万国公法を持ち出して「非は明らかに明光丸にある」と紀州藩に多額の賠償金を求めたのです。

いろは丸は長崎からさまざまな物資を積んで、大坂に向かう途中でした。船の積荷には大量の金塊や最新鋭の銃が積んであったと龍馬と海援隊側は主張しました。

いろは丸と明光丸はそれぞれ衝突の直前、回避行動を取っていました。いろは丸は取舵、つまり左に舵を切りました。一方の明光丸は面舵、つまり右に舵を切ったため、両船とも同じ方向を向いてしまいます。そして、明光丸の船首が、いろは丸の右舷に衝突してしまったのです。

龍馬は「万国公法」に照らし合わせて、明光丸の側に非があると主張しました。しかし、実は当時も現代も、国際法上は前方から船が向かってきた場合には、お互いに面舵(右舵)を取り、衝突を避けるのが大原則となっていました。つまり、この場合、面舵を取った明光丸のほうが正しい回避方法を実行していたわけで、取舵を取ってしまったいろは丸にこそ非があるのです。

そのことに気づいていた龍馬は、それを百も承知で、口から出まかせを言って、紀州藩を言いくるめてしまったのでした。

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