幕末の謎、坂本龍馬の「暗殺」をめぐる3つの"考察" じつは歴史研究者からは見向きもされていない

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薩摩と長州は武力によって幕府を打ち倒そうとしたわけですが、幕府側は薩長の攻勢をかわすための窮余の一策として、政(まつりごと)を朝廷に返上するというアクロバティックな一手に出たのです。これを後押ししたのが、土佐藩の後藤象二郎であり、同じ土佐藩士の坂本龍馬が暗躍していたとされています。

つまり、幕府側は大政奉還を望んで行ったことになります。旗本を中心にした上位の組織である見廻組は、浪士を集めて組織された新撰組よりも、ずっと幕府の中枢に近い存在です。幕府の考え方により精通し、より忠実であって当然でしょう。

それなのに、大政奉還を進めた龍馬を守りこそすれ、反対に殺めてしまうというのは、幕府の意に背くことになってしまいます。やはり、京都見廻組では龍馬を暗殺する動機が弱いのです。そうなると、反対に大政奉還を推進されると目障りだと考える者たちが、龍馬暗殺の下手人である可能性が高いということにならないでしょうか。

暗殺の背後にちらつく「薩摩藩」の影

そもそも大政奉還はいかにしてなされたのか。まず慶応2(1866)年1月、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎を仲立ちにして、薩摩と長州の間で、薩長同盟が結ばれます。その翌年に薩摩藩と土佐藩の間で薩土盟約が、薩摩藩と長州藩と安芸藩の間で薩長芸三藩盟約が結ばれました。

これらの藩は明治維新の原動力となりましたが、しかし、それぞれの主張や思惑、立場は微妙に異なっていました。特に意見の相違があったのは、徳川幕府をどうするかという問題です。

土佐藩は幕府と朝廷を一体化させる公武合体を推進していました。藩主の山内容堂も、15代将軍・徳川慶喜を最後まで擁護していました。安芸藩も諸外国の脅威に危機感を持っており、徳川幕府を仲間に引き入れるべきだと主張しました。

一方、明らかに倒幕派なのは薩摩藩と長州藩でした。幕府との武力衝突を避けたい土佐と安芸は、幕府へ働きかけ、大政奉還を実現させました。徳川幕府が朝廷に政権を返上したのですから、徳川打倒の大義自体がなくなってしまったのです。

これに頑なに反対し納得しなかったのが、薩摩藩でした。特に意外と思われるかもしれませんが、西郷隆盛だったのです。彼は武闘派のなかでも最強硬派であり、あくまでも徳川慶喜に腹を切らせるべきだと、武力による倒幕の姿勢を崩しませんでした。

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