幕末の謎、坂本龍馬の「暗殺」をめぐる3つの"考察" じつは歴史研究者からは見向きもされていない
下手人探しについては、龍馬暗殺の2カ月後に戊辰戦争が始まったため、実際の容疑者取り調べは、明治2(1869)年5月の箱館戦争終結後に実施されました。当初、事件への関与が疑われていたのは、新撰組のなかで主に「暗殺」の任務を担っていたと言われる「人斬り鍬次郎」こと、大石鍬次郎でした。
彼への取り調べが行われましたが、その後、京都見廻組が実行犯であるという証言が出てきたのです。見廻組の隊士・今井信郎を取り調べたところ、犯行を供述し、その結果、今井を含む京都見廻組7名が、坂本龍馬暗殺の実行犯であったことが判明しました。
しかし、今井以外の6名はすでに戊辰戦争で戦死していました。そのため、今井だけが刑に服すことになりました。しかし、今井の自供した内容には矛盾も多く、信憑性に欠けていました。また、禁固刑に服していましたが、わずか2年で赦免となっており、不審な点が多いのです。
京都見廻組は新撰組同様、京都の治安を守る警察組織のようなものですが、有象無象の集まりであった新撰組と違って、主に旗本で構成されたエリート集団でした。剣の達人揃いで、なかでも西岡是心流の桂早之助は小太刀の名手として知られていました。
龍馬が暗殺されたのは近江屋の室内でのことです。かなり狭い部屋で、大人2人が立つこともままならないくらいの広さでした。通常の刀を振るうことは難しかったでしょうから、犯人は小太刀で龍馬を斬りつけたと考えられます。それゆえ、小太刀の使い手である桂早之助が龍馬暗殺の下手人だと思われました。
暗殺の1年前、龍馬は京都伏見の船宿・寺田屋で、京都所司代指揮下の伏見奉行所の捕吏たちに襲われたことがあります。その際、龍馬は高杉晋作からもらったピストルで応戦し、逃げのびました。この事件では、伏見奉行所側に死傷者が出ています。
当時、桂早之助は京都所司代の同心でした。つまり、桂早之助にとって龍馬は自分の部下や同僚を殺し、傷を負わせた人間ということになります。だから、桂早之助には龍馬を斬る十分な理由があるというわけです。
「京都見廻組」犯人説に、ぬぐえない疑問
しかし、どうも京都見廻組が龍馬を暗殺した理由が、ある意味では私怨に近く、動機の根拠としては弱いように思えます。私が気になるのは、まず龍馬が殺された時期です。武力によらない平和的な倒幕を念頭に置いた大政奉還が実現した、わずか1カ月後のことでした。
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