台湾に米軍が「再び」駐留する日は本当に来るか 米台間の壁は低くなりつつあるが、一線はある

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第2次世界大戦後、国共内戦が再開した。そして1949年10月に中華人民共和国が成立すると、中華民国政府は中央政府を台北へ撤退させた。アメリカは、いずれ台湾も陥落するものと踏み、事態を静観していた。

しかし、1950年6月に朝鮮戦争が勃発するとアメリカは方針を転換し、トルーマン大統領は台湾に軍事援助顧問団を派遣した。とはいえ、その任務は「敗残兵の集団」と揶揄された軍隊の再建であり、台湾の防衛に従事できるほど人数も多くなかった。

ベトナム戦争の重要拠点が米中接近で撤退

1954年8月に中国人民解放軍が金門島(中華民国政府が中国大陸沿岸に保持する島嶼)に砲撃を始めると、米台間は12月に「米華相互防衛条約」を締結した。同条約に基づき台湾にアメリカ台湾防衛司令部が新設、実際に台湾の防衛を目的とした米軍部隊の台湾駐留が始まった。人民解放軍が再び金門島に砲撃を始めた1958年の第2次台湾海峡危機の終息後、アメリカ政府は台湾防衛に充てる駐留米軍の規模を拡大した。

1960年代に入ると、台湾は思いもよらず米軍にとって重要な拠点の一つとなった。ベトナム戦争の激化に伴い、米軍は台湾に補給基地としての役割を見いだしたのである。台湾中部の清泉崗基地は、東アジア最大の米空軍基地と言われるほど規模が拡大されていた。アメリカ政府は、台湾を地域の安全保障における要衝として活用したのである。

だが、1969年にニクソンがアメリカ大統領に就任すると台湾の位置づけが一転した。ベトナムからの「名誉ある撤退」をスローガンに掲げて当選したニクソンは、ソ連や北ベトナムとの交渉を有利に進めるため、中国への接近に踏み切った。そこで、台湾駐留米軍の撤退が俎上に乗った。

1971年7月に訪中したキッシンジャーは、周恩来との会談で「在台米軍の3分の2はベトナム戦争に関連した兵力であって、ベトナム撤退に伴い、それらを削減する用意がある」と述べた。そして1972年2月、ニクソンがアメリカ大統領として初めて訪中し、毛沢東らとの会談。発表された「上海コミュニケ」で、「アメリカのすべての軍隊および軍事施設は台湾から撤退ないし撤去されなければならないという立場を再確認した」、「この地域の緊張が緩和するに従い、台湾の米軍隊と軍事施設を漸進的に減少させるであろう」と示された。その年末以降、台湾駐留米軍の撤退が始まった。

米軍が台湾から撤退していく過程で、アメリカ政府は台湾の防空能力の構築を重視した。そのほか、米華相互防衛条約に基づきハワイなどから部隊を派遣し、台湾の軍隊と協同で防衛作戦を遂行するシミュレーションが行われた。

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