"逆臣"批判もある「北条義時」が本当は偉大なワケ 約700年にわたる武家政権の礎を固めた男の半生

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北条義時が創建したとされる北條寺にある、北条義時夫婦の墓(写真:Photo_N/PIXTA)
承久3(1221)年、「承久の乱」では、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時に、討伐の兵を挙げるも、大敗。勝利した鎌倉幕府は武家政権を盤石なものにしていく。しかし、それから3年後の貞応3(1224)年、義時は突然、死去。62歳で生涯を閉じている。
承久の乱で朝廷と戦い、3上皇(後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇)を配流したことから「逆臣」と批判されることもある義時。地方豪族の次男坊でありながら、どのように出世の機会を得たのか。そして毒殺ともいわれる最期について、これまで数多くの偉人たちについて書いてきた著述家の真山知幸氏が解説します。

前半生はいつも誰かの運命に振り回されていた

偉人が歴史に名を残すにあたって共通しているのが、幼少期や青年期に何かしらのきっかけをつかんでいることだ。

西郷隆盛ならば、薩摩藩藩主の島津斉彬に意見書を提出し、それが認められて引き上げられた。盟友の大久保利通の場合は、趣味の囲碁を通じて斉彬の弟、久光に近づき、出世の階段をかけのぼっていった。そこには「自分の人生を何としてでも変える」という強い信念を感じる。

北条義時もまた青年期にチャンスをつかんだ。鎌倉幕府を開いた源頼朝によって、歴史の表舞台へと引っ張り出されることになる。

ところが、義時の場合は、自分の意思とまったく関係のないところで、結果的に道が拓けることが多かった。言い換えれば、義時の前半生は、いつも誰かの運命に振り回されてきたともいえるだろう。

義時の人生におけるターニングポイントの1つが、姉の北条政子が源頼朝の妻になったことだ。

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