近鉄奈良線を半世紀支えた「旧生駒トンネル」の今 社運かけ大工事、1914年当時「複線で日本最長」

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旧生駒トンネルは近鉄の前身の大阪電気軌道(大軌、1910年設立の奈良軌道から商号変更)が1914年、現在の近鉄奈良線を開通させるにあたり、上本町―奈良間を最短距離で結ぶために完成させた。全長は3388m。当時、中央東線の笹子トンネル(4656m)に次ぐ国内2番目の長さで、標準軌の複線として日本最長だった。

経路の選定にあたっては、ケーブルカーで山を越える案など、ほかに3つの候補があったが、最終的に旧生駒トンネルのルートに決まった。2010年刊行の『近畿日本鉄道100年のあゆみ』は「周到な計算と熱心な議論の末に下したこの英断こそ、現代における当社の礎となっているのである」と振り返る。

難工事の末に完成

1911年に始まったトンネル掘削工事は33カ月を要し、困難を極めたという。請け負ったのは大林組。同社は生駒トンネルと同じく、1911年に現在の東京駅である東京中央停車場の建設工事を受注し、1914年に竣工を迎えている。東西で鉄道の2大プロジェクトが同時に進行していたことになる。

旧生駒トンネルの内部
1914年の完成当時、標準軌複線で日本最長のトンネルだった(記者撮影)

同社が電子化して公開している『大林組八十年史』(1972年刊)によると「掘削が進むにつれ、次第に地質が悪くなり、岩石と粘土の混合した軟弱な部分が多く、また地下水の湧出に悩まされて、予想外の難工事となった。さらに電力の供給も不十分で、停電事故が頻発し、これも工事を遅らせる原因となって、はなはだしいときは一カ月に三〇センチという進行状態であった」。1913年1月に起きた落盤事故では多数の死傷者を出した。

大軌と大林組がともに社運をかけた工事は1914年1月31日、東西の導坑が貫通し、4月18日にトンネルが完成、4月30日に上本町―奈良(当時は仮駅)間で鉄道が営業運転を開始した。

だが、大軌はトンネル掘削の莫大な費用や不安定な運輸収入による資金不足に悩まされた。「開業当初には、駅の出札口から小銭をかき集めて発電の燃料となる石炭の代金支払いにあてたほか、宝山寺に依頼して乗車券を購入してもらい、その代金を給与支払いに充当したといわれる」(『近畿日本鉄道100年のあゆみ』)。その後、経営難を乗り越えた大軌は積極的な路線拡大に乗り出すことになる。

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