源頼朝が重用「梶原景時」力握ったのに没落した訳 頼朝の死からわずか1年で鎌倉から追放

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鎌倉幕府の有力御家人だった梶原景時について解説します。写真は鎌倉にある鶴岡八幡宮 (写真:gandhi/PIXTA)
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。その13人のうちの1人が梶原景時(かじわら・かげとき)です。景時は源頼朝に重用されていましたが、頼朝の死後、13人のメンバーで最初に失脚してしまいました。いったい何があったのか。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

梶原景時は、源頼朝の信任を得て、頼朝側近として活躍をしてきた。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、歌舞伎役者の中村獅童さんが、景時役であるが、重厚感があり、またどこか妖しい雰囲気は、これまでにない景時像を提供してくれているように思う。

その景時であるが、頼朝の没後、1年も経たずして鎌倉から追放されてしまうという悲劇に見舞われる。力を持っていたはずの景時はなぜ没落してしまったのか。

源頼家に訴訟を持ち込めるのは13人に限定

1199年4月12日、頼朝の後継・源頼家に訴訟案件を持ち込むことができるのは、北条時政、北条義時、大江広元、三善善信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政の13人の有力御家人に限定された(鎌倉時代後期編纂の歴史書『吾妻鏡』)。

さまざまな者が直接、頼家に訴訟を持ち込んで、幕政が混乱することを避けようとしたと思われる。まだ若い頼家を宿老たちが支える体制がこのとき、作られたのである。13人のメンバーの中に景時の名もあり、順調な滑り出しだ。

それから約1週間たったころ、景時は新たな行動に出ている。景時は中原仲業と政所(鎌倉幕府の政務機関。財政や訴訟を管轄)に次のような張り紙をしたという。

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