中央線快速「杉並3駅」問題の伏線、荻窪駅の発展史 かつては政治を動かす「別荘地」だった時代も

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荻窪駅北口はバスが頻繁に発着する。青梅街道に面するので自動車の交通量は多い(筆者撮影)
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6月19日に投票、20日に開票された東京都杉並区長選挙は、新人候補の岸本聡子氏が当選して幕を閉じた。杉並区長選では西荻窪駅から北側に延びる都市計画道路や阿佐ケ谷駅の駅前広場の整備なども争点のひとつになっていた。

東京23区の西に位置する杉並区は、人口が約58万人。区の真ん中を中央線が東西に貫く。中央線は東京駅を起点にする幹線で、そのルーツは1889年に新宿駅―立川駅間を開業させた甲武鉄道だ。

新宿駅―立川駅間が開業した当初、現在の杉並区域に駅は存在しなかった。1891年、杉並区域として初となる荻窪駅が誕生。当初は甲武鉄道の開業と同時に設置される予定だったが、用地捻出で話し合いがまとまらず、開設は2年後にズレこむことになった。

杉並初の駅として開業

開業と同時には開設されなかったものの、それでも荻窪駅は早い時期に誕生した。これをきっかけに、駅を中心に杉並区域全体は発展を遂げていく。杉並の発展史は中央線の開業を抜きにして語れないが、もうひとつ忘れてはならないのが、杉並区の前身である井荻村・井荻町の村長と町長を務めた内田秀五郎の存在だ。内田が井荻村の村長に就任した1907年ごろ、杉並区域はまだ農村然としていた。

しかし、内田は地域の将来性を見越して耕地整理に取り組む。当時、多くの人は農業を営む農家だったが、所有する農地はあちこちに分散し、効率はよくなかった。耕地整理により、それらを集約すれば農業の生産効率は向上する。耕地整理の主目的は農業振興だったが、他方で内田は耕地整理によって道路・鉄道などの交通インフラが整備されることも期待していた。

内田が進めた耕地整理によって杉並区域は宅地化が進んだだけではなく、内田は西荻窪駅や旧西武鉄道(現・西武鉄道新宿線)の上井草駅・井荻駅・下井草駅の誘致も積極的に働きかけている。

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