近鉄「名物広報マン」が転身、畑違いの第2の人生 「鉄道少年」から電車の運転士に、その先は?

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大阪上本町駅のホームに立つ近鉄広報時代の福原稔浩氏(写真提供:福原稔浩)

関西の鉄道マスコミ関係者でこの男に関わらなかった者はいないだろう。福原稔浩。1975年に近畿日本鉄道に入社し2021年8月に定年退職するまで近鉄一筋。そのうちの27年間を広報マンとしてマスコミ各社との折衝に当たった。運転士や車掌時代の豊富な経験に加え、根っからの鉄道マニアだけにほかの鉄道会社の広報マンでさえ知らない情報にも長けている。さらにロケーションサービスを立ち上げ、NHK「ブラタモリ」から海外の大作映画までさまざまな映像作品の制作を裏方として支えた。

近鉄退職後はテレビやラジオに引っ張りだこの毎日。しかし、これは福原の「第2の人生」ではない。彼が選んだ仕事は鉄道とは無縁のものだった。それはどんな仕事なのか。なぜその仕事を選んだのか。それを知るためには福原の人生を振り返ってみる必要がある。

生まれ育ちは阪神沿線

福原は1956年8月に大阪市淀川区で生まれた。阪神電車の西大阪線(今の阪神なんば線)が生家のすぐそばを走っていたこともあり、幼少の頃から鉄道が好きだった。中学校に上がって大阪駅に行ってみた。日本全国からやってくるさまざまな寝台列車や特急がホームに止まっている。「この車両に乗ったらどこに行くのかなあ。乗ってみたいなあ」と、鉄道への興味が一層募った。

その後尼崎に引っ越した。母子家庭で育ち、家は貧しかった。中学時代から中華料理店でアルバイトをして皿洗いやホールでの接客をこなした。学校の給食費は自分で払った。高校に入ると少しずつ貯めたお金で、1コマで2枚の写真が撮れるオリンパスのハーフサイズカメラ「PEN」を購入、全国に鉄道写真を撮りに出かけた。

大学に行くだけの経済的な余裕がなく、高校を卒業したら鉄道会社に就職して車掌や運転士になりたいと考えた。国鉄に行きたかったが求人がなかった。だが、求人リストの中に阪神電鉄と近畿日本鉄道の名前を見つけた。両方受けたら運良く両社から内定が出た。

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