「女遊びで評判落とした武将」の意外すぎる最期 鬼神のごとき戦いぶりを見せた薄田兼相の一生

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女遊びが原因で情けないあだ名をつけられた武将とは? 写真はイメージです(写真:俺の空/PIXTA)
女遊びが原因で、敵に城を落とされた武将がいる。その後、彼の評判は地に落ち、情けないあだ名をつけられる始末。そんな彼が、最期の瞬間に名誉挽回できた理由とは? テレビでもおなじみ歴史研究家の河合敦さんの新刊『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ 「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム)より一部抜粋・再構成してお届けする。

異性関係で失敗して、表舞台から去る芸能人は後を絶たない。不倫やいけない関係についつい夢中になり、それが露見して、人びとからそっぽを向かれることになる。とくに、清々しさや夫婦円満をアピールしていた芸能人などは致命的だろう。

戦国時代にも、異性関係で評判が地に落ちた武将がいた。薄田兼相(すすきだ・かねすけ)である。それほど有名ではないが、じつはこの失態がきっかけで名を残した人物なのである。

情けないあだ名をつけられた武将

大坂冬の陣(1614)のとき、「橙武者(だいだいむしゃ)」という言葉が大坂城中で密かなる流行語となった。橙というのは、大粒の柑橘類で色鮮やかな実だが、とても食用にはならず、正月の飾り物としてしか使えない。それゆえ、見かけは立派だが、何の役にも立たないという意味で、橙武者という言葉は使われたのだった。

そんな情けないあだ名をつけられたのが、先の薄田兼相であった。だが、この武将の前半生は、不思議なことにまったく不明なのだ。なお、岩見重太郎と同一人物ではないかとする説がある。重太郎の父・重左衛門は、毛利一族の小早川隆景の剣術指南をしていたが、あるとき広瀬軍蔵という男にだまし討ちされてしまう。息子の重太郎は、復讐のために広瀬を探して仇討ちの旅に出る。

その旅で彼は、数々の武勇伝を残している。一人で山賊を皆殺しにしたとか、仙台で大蛇を退治したとか、信州松本で妖怪を退治したといった逸話だ。

もちろん、後世の作り話だろうが、天正18年(1590)、日本三景の一つ・天の橋立において、重太郎は仇の軍蔵を打ち倒し、その名は天下に知れわたった。

が、その後の重太郎の確かな足取りがわからないのだ。伝承として、豊臣秀吉に見いだされて馬廻り役に抜擢され、三千石で仕えたという。このおり重太郎は、叔父方の苗字に変名したとされ、その名こそが薄田兼相であったと伝えられる。あくまで巷説であって、一次史料は存在しない。

では、なぜ同一人物になったかということだが、それは薄田兼相の前半生も不明であり、なおかつ、重太郎と兼相の二人が、武術にすぐれた大男である点で一致しているからだろう。

事実、兼相を祖とする「兼相流」(柔術)と「無手流」(剣術)と称する流派が、かつて存在していたことが判明しており、兼相も相当な兵法者だったらしい。そうした似た者同士を、江戸時代の講談師などが巧みにつなぎ合わせて一人の生涯とし、面白おかしく話をつくったのだろう、というのが、現在の有力な説である。

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