日本人は昔から働き者?知ると深い「江戸の労働」 下級武士は「2日勤務1日休日」でも忙しかった訳

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江戸城で働いた武士をはじめ、当時の労働事情について解説します(写真:aki/PIXTA)

会社員の悩みの1つに「仕事の休みがない」「毎日残業続きで、プライベートの時間が取れない」といった働き方に関するものがある。日本のビジネスパーソンの中には、会社に忠誠を誓い、勤勉に働く人が少なくないため、江戸時代の武士に例えられることもある。では、江戸時代の武士がどのような働き方をしていたのか、ご存じだろうか。

例えば江戸城に勤務する武士。護衛や雑務に従事する下級武士は「3日勤め」。2日勤務したら、次の日は休みだ(当番2日、非番1日)。朝から晩までの勤務というわけではなく、朝番・夕番・不寝番に分かれていた。三交代制だったのだ。また、藩の事例ではあるが、長州藩の城の警備職の場合は1日夜勤して2日休みというものもあった。

ただし、下級武士の給料は低かった。それではとても生活していけないということで、カゴやザル作り、傘張りなどの内職をしていた。つまり休みの日にも多くの時間は仕事をしていたということになり、ある意味、休日返上で仕事にはげむビジネスパーソンと変わらないということになる。

老中や寺社奉行は1カ月交代で業務

中級以上の武士になると、さすがに内職などをする必要はなかった。ちなみに上級の武士はどういう働き方だったのか。

江戸幕府の最高職というべき老中は、譜代大名の中から選ばれ、定員は4人から5人。月番制であり、毎月1人が担当した。午前10時に江戸城に登城し、午後2時には退出したというから、勤務時間は約4時間であった。とは言え、老中職の仕事だけでなく、藩主としての仕事もあるので、かなり多忙だったようだ。

寺社奉行は定員約4人、町奉行は2~3人というように、江戸幕府は各役職の定員が複数人であった。老中と同じように、月番制であった。1カ月交代で業務をしつつ、最後には合議制で物事を決めていったのだ。

このような体制にしたのは、1人の者に権力が集中するのを避けるためであろう。また1人で物事を決めるのではなく、他人と合議することによって、よりよい解決策を見出すことができると考えたという見方もできる。意地悪く考えるなら、責任の所在を明らかにしない無責任体制ともいえるかもしれないが……。

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