「民主主義」「人権」に絶対的価値は存在しない あふれるフェイクニュースから真実を見いだす方法

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ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、ユーゴ内戦時の弾痕が残る建物。フェイクニュースによる情報操作の影響が大きかったユーゴ内戦が残した爪痕は残された今も生々しい(写真・yuzu / PIXTA)

「フェイク・ニュース」という言葉がある。いつごろからか、こうしたニュースが堂々とニュースの中心に躍り出ている。フェイク(嘘)というのだから、真実ではないのだが、そもそもニュースが真実であること自体、今では意味を失っている。これまた外来語であるが、ポスト・ツルース(真実の後)という言葉まである。これは、真実に興味をもたなくなった時代の言葉である。

人間の感性に正確な認識はできない

17世紀の哲学者スピノザ的に言えば、人間は、身体を持つ以上、身体に左右されて、身体を持たない神のように真実を正確につかむことができない。つまり、身体という肉の煩悩にさいなまれるのである。人間には認識するための感覚的装置として五感が備わっているが、脳はこうした感覚的装置を経ることなく、ものごとを認識することができない。よく「色眼鏡で見る」という言い方があるが、色眼鏡とはこの視覚という装置にすでに思い込みがあるということだ。かくかくしかじか、この感覚的装置に色眼鏡がかかっていたら、正確に理解することなどできないはずだ。

しかし、そもそも人間の感性に自らの個別の肉体の欲望を充足したいという願望がある以上、正確な認識など、けっしてありえないということになる。だからこそ、昔の賢人は、肉体の欲望を抑えるために、ひたすら肉体の修行に励んだわけである。キリスト教の聖職者・神学者であるヒエロニムス(347?~420年)は、色欲から脱出するために砂漠にこもったという。色欲、金銭欲、名声欲という煩悩から脱却することは至難である。

とはいえ、個々人の肉体を越えて多くの人々の共有の財産となっている事実は、真実だと思いたい。人間社会はこうした共有する事実によってできあがっているのだ。科学の真理といえども、結局はこうした共有物にすぎない。フェイクとは、ありもしないもの、個人あるいは、ある種のセクト集団だけしか共有できないものをいう。しかし、問題はその集団の数である。どんな謬見でも、数の論理によって押し切ることが可能だ。

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