織田信長を生んだ父・信秀の独創的な教育方針 歴史に学ぶ乱世を生き抜く発想力の身に付け方

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織田信長の偉業は父・信秀による教育の賜物ではないか──? 信長を生んだ教育とはどんなものだったのでしょうか(写真:けいわい/PIXTA)
時代の大きな変わり目を迎えている今、新しいことを学び、吸収する姿勢がこれまで以上に求められています。ただ、変化を前にしても、前向きに学べる人、現状維持に甘んじる人に分かれるのが世の常です。
時代の節目、節目に現れた歴史上の人物はもちろん、「現状維持に甘んじる」ことなどなかったでしょう。なかでも、変化に臆せず、進取の精神に富んだ織田信長は、「親の教育の賜物ではないか」と、歴史家・作家の加来耕三氏は指摘します。信長を生んだ教育とは? 氏の新刊『日本史に学ぶ成功者たちの勉強法』をもとに、ひもといていきます。

知られざる信長の父の教育方針

織田信長といえば、古い権威を叩き潰し、新しい実力主義の時代の礎を築いた、というイメージがある人も多いでしょう。こうした偉業を、生まれ持った才能でやり遂げた人物。けっしてコツコツ努力するような人ではない、というのが信長の一般のイメージだと思います。

しかしそうとも言い切れず、彼の数々の偉業は、信長の父・信秀の教育による成果だった、と見ることもできるのです。どういうことか、詳しく説明していきましょう。

信長の父である織田信秀は、文武に優れた人物でした。もともとは尾張一国どころか、清洲という地域の三奉行のひとりにすぎませんでした。それを信秀は、尾張を支配する守護代を圧倒するほどの権勢と人望を持つまでに、勢力を広げたのでした。

信秀は武勇に優れているだけではなく、蹴鞠や歌道、礼法にも通じた文化人でした。非常に勉強熱心な武将だったのです。教養を身に付けるため、わざわざ京から公家や有職故実に詳しい人物を招いては、指導を受けていました。

ところが、嫡男である信長に対しては、自分と同じ教育を一切させていません。それどころか、当時の大名の必須科目である儒学・仏教・連歌や、中国の古典の暗記なども無理にはやらせなかったのです。

信秀自身は、都の公家の間でも名が知られるレベルの教養がありました。和歌も連歌も、見事に詠めたのです。並みの親の感覚なら、子どもの信長も自分と同じ教育をほどこしたい、と思うに違いありません。しかし信秀は、時代の先を読んだうえで、信長をどう育てるかを考えました。

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