東京駅と丸の内、「師弟」で築いた赤レンガの街

「首都の玄関」の景観はこうして生まれた

中央駅の駅舎デザインを命じられたバルツァーは、来日してから日本文化に感銘を受けていたため、政府首脳に提示されたのは寺社建築を思わせる和風のデザインだった。西洋建築による絢爛豪華な駅舎を望んでいた政府首脳はその案に不服だった。とはいえ、偉大な建築家がデザインした駅舎案をむげに却下することはできない。そのため、バルツァー案は保留にされる。

こうして政府は駅舎デザインを決定しないまま歳月は過ぎていく。日清・日露戦争が勃発すると資材調達は難しくなり、また戦費を割り振る関係から駅舎に財源を割く余裕もなくなる。中央駅の計画は凍結された。その間、丸の内の駅舎は着工されずに放置された。

1903年、バルツァーは帰国。政府首脳たちにとって、中央駅の設計を一から変える千載一遇のチャンスが到来した。すかさず政府はバルツァー案を取りやめ、改めて国内ナンバーワンの建築家との名声を得ていた辰野金吾にデザインを依頼する。

「品位と風格」の赤レンガ駅舎

辰野は、すでに日本銀行本店や旧両国国技館を設計した実績があり、国内で名声を得ていた。建築界の巨匠だった辰野には優秀な弟子も多く、薫陶を受けた弟子たちが国内各地で活躍していた。とくに、銀行建築では辰野と辰野の弟子たちの独壇場になっていた。

国内では右に出る者がいないほどの大建築家になっていた辰野は、銀行建築のみならず駅舎建築でも実績を残していた。1907年には南海鉄道(現・南海電気鉄道)の浜寺公園駅、1912年には鉄道院(のちの国鉄、現在のJR)の万世橋駅を設計している。

万世橋駅は、もともとJR中央線の前身である甲武鉄道が計画していたもので、同鉄道のターミナル機能を担うことが期待されていた。そのため、万世橋駅の駅舎には威信をかけており、当代随一の建築家である辰野に品位と風格を備えた駅舎デザインを求めた。

そして、辰野は西洋建築様式を取り入れた赤レンガ駅舎を見事に完成させる。万世橋駅の駅舎は、後に竣工する東京駅赤レンガ駅舎とうり二つだった。駅舎のみならず駅前広場も広々しており、東京市民の足になっていた市電(現・都電)のアクセスもよかったことから、一躍、東京名所として脚光を浴びるようになる。

バルツァーが日本を去った後、中央駅を設計するという大役を任せられる建築家は辰野のほかにいなかった。こうして、首都の中央駅建設という鉄道史上最大のプロジェクトを託された辰野は、政府首脳が思い描く「世界の一等国と肩を並べるデザイン」という期待に応えて、品位と風格を兼ね備えた赤レンガ駅舎を完成させる。

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