新幹線開業まで3年、「境界駅」敦賀の試行錯誤 乗り換え980万人予想、新たな文化つくれるか

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北陸新幹線の敦賀駅は、在来線駅・駅前広場の東側に建設中だ。中心市街地からみると、在来線駅や北陸線の向こう側に位置し、在来線の改札からは120mほどの距離がある。他地域の新幹線駅でいえば、新潟駅の南口から万代口の距離に近い。人の動線に沿った実際の移動距離は200mほどになるため、市は「動く歩道」整備などの配慮を鉄道・運輸機構に求めている。

敦賀駅北方の新幹線高架。左手奧は深山トンネル=2019年11月(筆者撮影)

東京から579kmを走ってきた北陸新幹線の列車は、敦賀駅北東の深山(みやま)トンネルを抜けてホームへ滑り込む。その高さは23m、地上7階建て相当と近隣のマンション並みだ。

2019年6月、福井県庁ロビーで展示されていた、県内4新幹線駅の模型(300分の1)を見る機会があった。敦賀駅の大きさは際立っていた。構造的に「高い」ことに加え、金沢以西の6駅で最大の島式・2面4線のホームを備えること、さらにはエスカレーター24基、エレベーター6基を設置することなどが要因という。

「サンダーバード」「しらさぎ」と北陸新幹線を乗り継ぐ乗客は、1日2万7000人、年間では980万人を見込む。その人の流れに対応した結果が巨大な駅舎だ。地元で「要塞のような駅」と評する声も耳にした。垂直方向と水平方向の距離を考慮した、在来線との円滑な乗り換えが大きなカギになる。

ただ、地元にはまだ不安も漂っているという。新幹線駅が在来線駅の向こう側、市街地から外れた、木ノ芽川沿いの手狭な細長い敷地に位置するためだ。まだ道路網とも接続していない。駅舎と周辺の整備が進むに従い、活用の具体的イメージが湧いてくるまで、少し時間が要りそうだ。

幾重もの「境界」のまち

福井県は地形的に、木ノ芽峠を境に「嶺南」「嶺北」に分かれ、歴史的・文化的には敦賀以北の「越前」と美浜以西の「若狭」に分かれる。その狭間に位置する敦賀の名は、日本が国の形を成し始めた時期から歴史に登場する。横顔を見ていると、幾重もの「境界のまち」と呼びたくなる。

市の資料によれば、日本書紀に越前国・角鹿郡(後に敦賀郡)の記述が現れるのは692年のことだ。「越」の国の南端、いわば玄関口が敦賀だった。しかし、北方は木ノ芽峠、それに日本海岸まで迫る山並みによって越前の主体部と隔てられ、母屋から玄関だけが張り出している格好だ。このため、敦賀は「越前だが嶺南、地域的には若狭」という独特の立ち位置を占めることになる。

市内の来迎寺にある、敦賀城から移設された中門=2019年11月(筆者撮影)

歴史が下って、鎌倉時代には新田義貞が市内の金ヶ崎城に拠る。さらに、戦国末期には、関ヶ原の奮闘で知られる武将・大谷吉継が敦賀藩主として5万石を領有した。彼の死後、敦賀城は破却されたが、市中心部の来迎寺には、今も中門などが残る。江戸初期、敦賀は福井藩領、さらに幕府領、小浜藩領に属し、1682年には一部が小浜藩の支藩・敦賀藩領となった。明治維新後、廃藩置県によって敦賀県、そして境を接する滋賀県に所属した後、1881(明治14年)、現在の福井県に落ち着いた。

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