500年続く「キリスト教同士の抗争」根深い背景 日本人があまり知らない世界史の"基本"

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つまり、日頃買い物をするパン屋も肉屋も魚屋も、学校や病院、会社もそれぞれの宗教間で異なるわけです。同じ言語を話し、民族的にも同じであるにもかかわらず、宗教が違うだけでまったく異なる社会の住人となってしまうのです。町の住民がまるごと同じ宗派なら問題は少なかったのですが、1つの町に両派の住民が住んでいて、隣人が別の宗派なんてことも普通のことでした。

これはヨーロッパに限らず、人間社会全体に言えることですが、自分の所属する派閥のルールこそ常識で、別のそれを持っている奴らは気に食わないと思ってしまうのです。

「パンのみ」かどうかをめぐって15年の抗争へ

本格的なローマ教皇に対する批判と宗教改革運動は16世紀から幕を開けるのですが、その走りの運動は15世紀から始まっていました。

その代表格が、(現在の)チェコで起こったフス戦争です。当時のチェコは神聖ローマ帝国の領土で支配層はドイツ人でしたが、被支配者であるチェコ人が政治・経済的に力をつけてくると、自分たちの権利の拡大やチェコ文化やチェコ語の復権などを目指すようになりました。

そんな中でプラハ大学の学長に就任した神学者ヤン・フスが、チェコ語で説教をしてチェコ人の絶大な支持を集めるようになります。チェコ人は1414年ごろから独自の教理である両形色説(ウトラキスムス)を発生させました。

カトリックではミサのときに俗人の聖体拝受には「パンのみ」しか認められなかったのですが、両形色説は「パンと葡萄酒」の両方を使いました。われわれからすると本当にさまつな違いに思えるのですが、当時のカトリック教会にとっては自分たちに対する重大な挑戦でした。

1411年、ヤン・フスは教皇グレゴリウス12世が販売した「贖宥状」に対して反対を表明し、破門されてしまいます。

その後コンスタンツ公会議に召喚されたフスはだまし討ちに遭い捕らえられ、8カ月の異端審問の末焚刑にかけられ、遺灰はライン川に遺棄されてしまいました。この事件にチェコ国内は騒然となり、皇帝とローマ教皇に対する不満が高まっていきます。

そんな中、皇帝ヴェンツェルはプラハ新市街の市参事会員をすべてカトリックに置き換える政策を実施。これに両形色説の人々は激怒し、プラハ市役所におしかけ参事会員のメンバーを窓から放り投げ、下で待ち構えていた民衆は参事会員を槍や剣で受けて惨殺しました。これが「プラハ窓外放出事件」という事件です。

この暴挙にボヘミア王ヴァーツラフ4世は怒りのあまりに死亡。皇帝弟のジグムントは、両形色説派を撲滅するために十字軍の派遣を決定します。亡くなったヤン・フスを支持する人々は武装して武将ヤン・ジシュカの下に集い、十字軍に対する戦いを開始しました。

次ページ反発と、独自社会の構築志向が民衆レベルで高まった
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